藪入り

(古本屋の軒先にて或本を手にする)

「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
ふいに喉につまった漱石を口ずさみ、すり寄る猫につぶてを投げた。
閑職にあって、午後のやるせないこの憂鬱は何によっても霧散せぬように思われた。
やがてジッと立っているのにも辟易して学校を出て歩き出したところを、呼び止められた。
「先生」
暗いなか、白いぼやっとした人影に寄られて私は声もなく逃げた。
後ろから下駄の音が追ってきた。
「先生、おばけじゃないよ」
なんだか知ったような声に私は振り向いた。
知らない顔が歯を剥いて笑った。
「そら」
と言って彼は着物の前を開いた。私は即座に目をそらした。
「けがらわしい」
「心配ないよ」
何が。
私は足を速めてこんどこそ彼を振り払った。
「うふふ」

(断章)

たまの休み、昼日中から私はいかがわしいものに捕まった。
それは私の横へ入り込んできて平然と蕎麦を食った。
蕎麦を食う間、よくしゃべりよく笑った。
「あの男。知っている?軍服を着た、頭のいかれた、そのあたりを鮫みたいに回っているだろういつも。あの男は僕に金を握らせた、そこであの男の家に行ってやった」
これはやはり、やはりおばけではないか。狐狸の類ではないか。
私は彼の笑う口元を見るたびにそう思う。
黄色い歯の根元まで剥きだして彼は笑う。犬がかみつく寸前に似ている。
「お金を握ったまま、僕はあの男の枕に垢をつけて、あの男の寝床を汚してきたんだよ。安心したろ」
「何を言うんだ」
私は仕方なしに二杯分の勘定を払って店を出た。得体のしれない男はそれは騒がしく舌を鳴らしながらついてきた。
「先生知っているよ、誰か他の人間の使っているものでないと安心できないんだろう。八百屋の店先でのろのろと待っていて他の客の選んだのと同じものを買うだろう。蕎麦屋でも前の人は何を食べたのと言って同じのを頼むだろう」
私は、目を剥いて彼の顔を凝視した。脇腹のあざを指摘されたような気持になった。
「だからさ、あの男がいるんだよ。さほどいかもの食いでもないというんだ。先生安心したろう」
私はからからと笑う彼に呑まれてぼうっと突っ立った。
彼に手を引かれるがままよちよちと歩かされて溝よこの家へあがった。
薄い布団の上へ仰向けに転げたきり、
私はただ目を開いて見ていた。
情けない話だ。
その家を出てからしきりに痒いので湯屋へ行った。
まっすぐ帰って細君の顔を見た、そして子の顔を見た。
「あなた藪にでも入りなすったの」
細君が私の顔を見てそんなことを言った。
蚊に噛まれた額をさすりながら私は黙っていた。

(断章)

私には異常なところがある。
それはいつからか知らないが私の日常に障りはじめた。
新しい本が手につかなくなった。
誰かの手垢のついた本を買ってみたがすぐ捨ててしまった。
友人の宅へ行って友人の普段読みつけているものを手当たり次第かりた。
ようやく読むことができた。
そんな具合だったので私の学業は遅々として捗らず、
友人には疎まれた。
捗らない学業を諦めて家の商売を継ぐことにした。
店番をしているときはよかった。
だが段々奥の仕事をするようになると、困った。
工場の方を任されて、職人の働くのをずっと見て回った。
物が組まれて新しくそこで作りだされるのを見た。
まだ誰にも選ばれていないぴかぴかしている物を前にして、
押し寄せるような怖気を催した。

(何かでねたついた数頁)

唐突に私は限界を迎えた。
父は私を神経衰弱だと言って、事務の口を見つけてきた。
それで学校へ働きに行くものだから私は先生などと呼ばれる。
他と違う異常なところがあるという事実にあたるたびに
私は人の群れから弾かれたような気持になって益々おびえた。
一向に治らなかった。
神経衰弱かもしれなかった。
都合の悪いことはみんな神経衰弱だと思わなくては成り立たなかった。
いまも日々、紙や鉛筆の新しいのを出すたびに私は胃を痛める。
家の中でも私は脅かされる。
細君は、戦死した兄の連れ添いだった女をあてがわれたのだった。
いくら見合いをしてもつやつやした女を見て不安になったものだが、
この女ばかりは何とかなった。
元々兄のもとだということを思い出しては安心するのだった。
明らかに兄のものでない子供が生まれたとき、私は家を飛び出して実家へ逃げ込んだ。
父に叱られて家へ戻ると細君の方が気を病んで実家へ帰ってしまっていた。
誰もいない家で私はがらんどうのように過ごした。
細君が戻ってきたとき赤ん坊だった塊は一個の人間になっていた。
私はそれを他人の子だと思うことにした。
細君は私より先に箸をとることを良しとしない。
毒見役のいない不幸を恨みながら私は一粒の飯を歯にはさむ。
そして箸をおく。
細君が箸をとり、子供が箸をとり、勢いよく食い始め、
私はそこではじめて飯粒をすりつぶす。
買い物は自分でしなくては気が済まない。
細君の買ってきた氷や牛乳はみんな子供に遣るのだった。
胡瓜や茄子も、他の客が選ばないというだけで
得体のしれないぞわぞわしたものに見えて仕方ない。
蕎麦でもうどんでも、まわりの客を横目に見て同じものを頼む。
他の人の吸い込んで噛み下す様子ばかり見て、同じことをする。
自分の他に客のいないときは大いに困る。困ってそのまま腹をおさえて出てしまう。

(頁が繰り戻る)

そんな私が溝の横の、どぶくさい、家に入った。
布団に転がされて、目を開いて見ていた。
彼のやることには確かに他の人の気配がした。
シャツに汗が溜まって背中がひたひたしている。
「ああ」
目が、覚めた。
汗をかいている。
普段寄らない蚊が寄ったのはそのせいだろうか。
蚊は生きている匂いがするものに寄ると言うから。
私はシャツの腕を嗅いだ。
シャツをすっかり脱いで鼻に押しあてた。
酸い、粘膜の焼けるような匂いがする。
汗はこんな匂いだったのか、いやこれは。
汗、が混じったもの。薬も混ぜれば毒になるという。これは硫酸かもしれない。
蚊はこんなものに寄るのか。
生きた匂いとはこれか。
あの家へ入る男と、女と、生きてうごめいている他の人間と同じ匂いか。
ああ。
ひどく、安心した。

(本を閉じる)
(フと、本の表紙を見返し)
「藪入り」

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