見出し画像

悪魔小僧

 
エバタという男がおりました。
 僕がこの男と話したのは中等学校の二年の冬、あるいは中等学校三年になる前の春、それきりです。名前もよく覚えておりません。エグチとか、エガワだったかもしれません。ただこの男の風貌が普通でなかったことはよく覚えているのです。鼻が西洋人のように高いのです。途中からぐぅっと曲がって、鼻先が上唇の方へ付きそうに垂れているのでした。肌が紙のように白く、目は細く、眉間には細い血管が透けていました。顔の中ほどで眼窩の窪みと頬の突ッ張りが異様な起伏を作り出して、黒黒とした髪が重そうに纏いついています。顎も口も小さく、唇は下唇が蜂にでも刺されたようにぷくりと膨れていて、口元だけ見れば可愛らしい娘と言われても信じてしまう具合にできています。そんな部分を盛り合わせた顔は、何と申しますか、とにかく同じ民族とも思えぬ様子だったのです。またこの男は痩せぎすで、枯れ木のような頸や手が制服からはみ出して不気味でした。
 中等学校二年の夏、エバタは突如有名人になったのです。羨ましいくらい些細なきっかけで彼は偶像になりました。

 それはたしか絵がうまい子が黒板に書いた妙な落書きのせいでした。その子は、背の小さい愛くるしい男の子で、僕は画家になるのだと言ってやまない自信家でした。彼の事は鮮明に覚えています。彼と学校に行く日が、月に十日はありました。
 連れ立っていつもより早く学校へ着いた日がありました。教室に誰もいないのを見て僕たちは非常にうれしくなったのです。お化けになったような気分で、僕らはちょっとしたいたずらをしました。捕まえてきただんごむしを隣の教室に放ったり、机に白墨の粉を叩きつけたり、そのくらいの事なのです。やがて彼は黒板にさらさらといくつか絵を描きました。彼の学ランの袖が白く汚れるのを僕は見ていました。彼の描いたのはみんな、学校までの畦道にいる動物でした。白墨を縦横に操って、うっすらと透けたトンボの翅の模様まで彼は熱心に描きました。僕はひっくり返った蛙の絵がよくできていると思いました。
 そのうち皆がどやどやとやってきて、僕たちの透明な時間は終わりました。
「人は描かないの」
と訊いたのは僕だったか、誰だったか。女の子が高い声で言ったような気もします。
 彼はにこにこして人物を描きました。それが非常に奇妙だったのです。皆は肩を寄せ合わせて覗きこみました。おかしな人の胴の下へ山羊の足をこしらえて、
「エバタの似顔絵だよ」
 みんなはこれを大変気に入って傑作だともて囃しました。僕は少しも面白いと思わなかったけれど、エバタの姿を遠くの方に見かけると、その胴に山羊の強靭な脚がついて発条のように跳ねていくのを想像するのでした。
 半分山羊になったエバタ像は大変な人気となって、「悪魔小僧」と呼ばれだしました。
 黒板に毎朝、悪魔小僧の落書きがされるようになり、エバタが物も言わずに消しているのを僕は見たことがあります。その時はさすがに気の毒なような感じもいたしました。夜中にエバタの家へ行って花火を焚き、けたたましく鐘を鳴らして悪魔祓いだと騒いだこともあったそうです。僕は行きませんでしたが、彼は行きました。絵のうまい、かわいい彼です。あくる朝にクスクス笑いながら僕にあらましを話してくれました。
 エバタが悪魔に祭り上げられたからとて、僕たちの生活のあらましは変わりませんでした。僕たちは無邪気に中学三年生になろうとしていました。
 
 そう言いましたら、これもそのあたりの事だったかもしれません。
 中学二年の終わりの頃、僕の仲良しの彼が、泣きそうな顔をして僕の家へやってきました。僕は彼を部屋へあげて、やさしく手を繋いでやりました。
「どうしたの」
「うん」
どうやら彼は春の猫のように柔らかい髪を、すっかり剃らなくてはいけなくなったのでした。彼の家は寺なので、それはいつかしなくてはいけなかったのです。彼は僕に向かって、いかに坊主頭が不格好かと嘆きました。確かに彼は頭の頂点がのっぺりと平たくて、坊主頭の似合わない頭の形でした。と、僕はその鉢を撫でながら思ったのです。鉢から耳のあたりへ少し巻き上がりながら垂れる髪を掬い上げるのが好きでした。僕は彼の髪が好きでした。ですので僕たちは一緒にさめざめと泣いたのです。
 母に発見されるまで、僕たちは干上がった魚になってしまったように、ばらばらと呼吸を荒げながら涙をぽたぽた流しました。
 僕たちを見て、母は慌てて水蜜桃の切ったのを彼の口に抛りこみました。その慌てるのがおかしくて笑った僕の口にも水蜜桃が飛び込みました。ひやっとした果肉を口の中で転がしていたら、ぬるくなって肉の塊に思われてきたので無理に呑み込みました。変な日でした。蒸し暑かった午前中がうそのように、変にうすら寒かったのを覚えています。彼は赤い目をして、口を何か言いたそうにもぐもぐしながら、結局何も言わずに帰りかけました。
「いつなの」
 僕は聞きました。
「いつ剃ってしまうの」
「次の学期のはじまる頃には」
 彼はいっぱいいっぱいな目でそう言って、駆けだしていきました。

 さて彼と二人で泣いた同じ冬、学期の終わりでした。エバタが訳ありげな顔で僕の元へ寄ってきました。
 ……その頃みんな「悪魔小僧」の落書をすることやエバタを囃し立てることにはもう飽きてしまっていました。どころか、ほんとうにエバタは悪魔なのではないかしらと不気味に囁かれるようになりました。だって、エバタは夏でも冬でも学ランの長袖を決して脱がなかったのです。どころか、車掌のような白手袋をつけるようになりました。そして、みんな気づき始めたのです。エバタの、涼やかな目や凛々しい鼻、娘のようなおちょぼ口、部分なら美しく、全体なら不気味なこの顔が、あの通学路にいつの間にか貼られている指名手配のチラシ、あれにある顔に少しずつ似ているということにです。僕たちにとって、エバタは本当に恐ろしい存在になりつつありました。
 そんなエバタが、時々僕をじっと見るようになったのを、いやだな、と思っていましたが、この日、ついに話しかけられてしまったのです。
 理科室でのことでした。ビーカーを洗いながら、エバタがじっとこっちを見ているのに気づきましたが、僕は頑なに目も向けませんでした。
「こんど見世物をやるんだけども」
 すると、ぞっとするような声がして、びっくりした僕はさすがにエバタのあの悪魔の鼻をまともに見ました。そうです、この男の声、これも非常によく覚えています。なんと言いますか、耳元で虫が飛ぶ音を十匹分束にしたような声で。
「どうかな」
「どうかなと言われてもな。どういった類の見世物」
「いやいやそれを言っちゃ面白くないから」
と、僕にぐいぐいと紙きれを押し付けるのです。
「チラシをあげるから。裏に住所が書いているからぜひ来ておくれよ」
 舌打ちをしてチラシを見ると、黒い紙に白墨で
――怪奇ノモノミセマス
とありました。
 よく見ようと思って触ったら指が粉っぽく汚れました。
「あ!汚ないな」
 とっさに僕の指を彼のシャツで拭いました。彼のシャツは嫌味な感じにパリっと乾いて清潔でした。その手袋は真っ白で、学ランは闇の色で、肌は静脈の色でした。
「強烈な見世物だから、夕飯を食べてきてはいけないよ。胃を空にしてくるんだよ」
「人が人を殺す様子などが見られるというのかい」
 エバタはえへへ、と嫌な笑い方をしました。僕はチラシを裏返しました。
「いつ。日付が書いてないじゃないか」 
 エバタの蠅の群れのような声がくっきりと言いました。
「今夜二十一時だよ。君は来ないだろうなぁ。怪奇と言われると怖いもんなぁ、怖いもんなぁ。今夜二十一時。二十一時だよ……」
 このとき僕はもうすでに厭な感じがしていたのです。でも僕はそれを臆病のせいだと思いました。
 僕の母はきちんとした人で、いやらしいもの、如何わしいものをひどく嫌いました。はやりの映画などはほとんど見せてもらえませんでした。みなが大好きな推理小説すら読ませてもらえないほどでした。おかげで僕は街のちょっとした暗がりや犬の長鳴きにすら心臓が跳ね上がるような小心者になってしまいました。小心者ほど闇に惹かれるものでありますから、エバタが僕を特別に選んだのはそのあたりを見込まれたのかもしれません。
 その夜。僕は厳しい母の掟を破って外出しました。洗い場の細長い窓を開けて、靴を投出して、そのあと体をよじって外へ出ました。月が明るいために影がいっそう濃い夜でした。せっかく投げた靴は片方がどこか暗い辺りに転がってしまって一向に見つかりませんでした。僕は裸足で出かけました。 なめくじを踏んで泣きそうになりながら、公園の方へ行きました。
 公園の口に人がいました。鼠色の大きな上掛けを着た彼は、僕を見て足踏みをしました。
「何の見世物なの?」
 僕は昼間、彼にエバタのチラシを見せて約束したのです。エバタの言う通り、チラシの裏に住所が書いてありました。ところは、公園を通り抜けたところにある、地下劇場でした。
「ねぇ何の見世物なの」
 僕たちは少しずつ足を速めながら公園を通り過ぎました。月の明るい中で彼の鼠色の上掛けがぬるり、ぬるりと光った。
「止そうよ」
 彼がしきりと話しかけるのを僕は黙殺しました。彼はどれだけ心細かったことでしょう。彼の髪がふわりふわりと、早足に遅れかけながらなびいていました。
「もう切ってしまうの」
「なに」
「髪」
「そう、もう今週の日曜日に」
 僕は立ち止まって彼の目を見ました。
「もし、君が……」
 いいさして、僕は月によそ見をしました。彼のうしろに、大きく白い月がぽかっと浮き出ていたのです。
「どうしたの」
 彼に囁かれて、僕はまた早足に歩き出しました。彼とその春の猫のような毛のことが額にちらつきながら。彼の泣きそうな息遣いを背中に感じながら僕はしゃにむに歩きました。

 公園を抜けると、てっきり公衆便所だと思った建物が、どうも地下に通じているようで、地下から明かりが漏れていました。僕たちは手摺のない階段を手をつないでそろそろと降りました。すると、段々、知った声が聞こえてきました。エバタが腕を振り回して偉そうに怒鳴っているのでした。
「さぁさぁ早く入ってもらわなくちゃ困りますよ、お待ちですから、お待ちですから」
 エバタは僕の顔をちらりと見ただけで別に喜びもせず、さぞ忙しそうに叫んでいました。
 劇場は、狭い入り口から入った一番低いところが舞台で、せりあがりの客席には存外のことにたくさんの人が頭を並べていました。紳士らしい影も見えました。よい香水の匂いがしました。
 これだけたくさんの人がいるならばさほど如何わしくもあるまいと思って、僕は彼の手を引き引き、中ほどの列へ体をねじ込みました。先に座っている人々は皆まじまじと前にのめって見世物を待望しているらしいのです。
僕たちは肩をくっつけて待ちました。しかしエバタが怒鳴るばかりで、なかなかはじまりません。僕たちが入るときには入口あたりに誰もいなかったのに、僕たちが入った後からどんどん、どんどん人が入ります。
 やがて、パッ!後ろから光が射しました。彼はびっくりして振り返りました。僕は振り返りたいのを辛抱しました。前には布が垂らされていて、そこにいま、一つの影が立ち上がりました。大男でした。その手には棍棒?いや、鉈です。大きな鉈を握っていました。きっと、僕たちの後ろに映写機があって、この像を投げかけているのでしょう。
「こんな影絵じゃなァ」
と僕は口にしてみました。まだ大して何も起きていないのに、僕の膝は隠しようもなく震えています。
 大男の前にもう一人の影が出ました。頭部が妙に四角いのです。箱か何か被っているのでしょうか。ギシギシと大男が前に進みました。僕の足元が揺れました。あれ、妙だな。と僕は思いました。映画というのは、こんな風に震動まで伝えるものでしょうか。
 大男の影が鉈をあげました。その刃先が光ったような気がしました。ばしゃり。という変な音がして、四角い頭部が消えました。
「エッ」
 隣から声がしました。映写機が消えて、僕は途端に震えました。
「さぁおつぎにいきましょう、お待ちですからね」
 パッ!とまた映写機のあかりがつきました。布に鉈を持った影がまたぬっと出ました。その体躯の巨大なのと鉈の幅の広いのに、未発達の僕は感心しました。ふと映写機というのがどんなのかよく見たくて振り向きました。映写機から放たれる一条の光が、客席の一列をあきらかにしていました。そのとき僕はどれだけぞっとしたでしょうか。
 僕がアングラ好きの紳士淑女だと思った群れは、麻袋で、いや、麻袋を被った人であったのだと思います。しかしその時には麻袋が行列しているように見えたのでした。そしてまた気味悪いことに麻袋にはそれぞれへたくそな顔が書いてあって、暗い中で曲がりなりにも人の顔に見えるのです。首を飛ばされた、あの人影、あの妙に四角い頭部と同じ形状が、服を着て地下劇場を埋め尽くしていました。
「次!」
 ばしゃり。鉈が振り下ろされ、エバタの大声が響きました。映写機が消えました。
 僕は思わず立ち上がりました。彼の手を取って今すぐ帰ろうと、闇の中を隣の席を探りました。
「いない」
「次!」
 パッ!前を見ました。映写機がつきました!
 大男と、その前に進み出る人影。その頭部は剥き出しのようでした。その顔に垂れかかる少し巻き上がった髪の影、僕はその色まで知っていました。
足元が揺れました。鉈があがりました。首が消えました。

 気づいたら、僕は地下劇場の中ほどの席に一人で座っていました。映写機が唸っていました。
 コツコツ、と僕の後ろの席に誰かが入り込んできました。すがるように振り向いたら、エバタでした。
「よくきてくれたね」
 おちょぼ口の引きつった笑みらしきものが闇に浮かんでいました。僕はぐるぐるした目で見上げていました。やがてエバタの真っ白な手袋、(闇の中で一つの生き物のように見えました)手袋の手が西瓜大の塊を差し出しました。
「君にあげたかったのはこれだよ」
 僕はその塊……彼の首を見ました。受け取って、まじまじと回して見ました。首の切断面は火で焼きでもしたらしく、ぶつぶつに乾いていました。切りたてだからか、彼の片目はけいれんしていました。そんなものかしら、と思いました。けいれんしている瞼に触れると、人差し指の先でぴたりと止まって、もう二度と動きませんでした。
「ごらんなさい、首だけならばこう手に収めて持ち帰れるわけですし、そばに置くのにこれほどいいものはないよ」
 そう言われると首だけでいいような気がしました。柔らかな髪が豊かに散る様子を見ると心が満たされたのです。この髪を切らずに済んで本当によかった。
「はい」
と渡されたのは桐箱でした。蓋を滑らせると藁が零れ出てきました。
「この箱は」
「いれものです」
 エバタの蠅の群れのような声がささやきました。
 藁をひとつかみ足元に捨てて、彼の首を横たえました。まだ入りませんでした。藁をかき分けて、彼の髪をととのえました。耳の裏の少し巻き上がった毛を顔の横へ梳き出しました。彼の額に汗がボタ、と垂れました。僕は汗だくでした。
 僕は背中を伸ばして、自分の仕事を見ました。彼の首はきっちりと箱に入ったのです。贈り物の箱を今開封したばかりのような、ほれぼれする収まりの良さでした。首だけだとこうも簡単に手に入るのだと思いました。

 これはエバタの話です。つまり、つまらない、いたかどうかもわからない、曖昧な……そう、夢の話だとしておきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?