自分を犠牲にしなくても、助けを求めていいんだよ

 今の自分の大きな悩みの一つに、10代の頃日常的にしていたリストカットの跡問題がある。
毎日生きている事がとても辛かった10代後半に肘下から手首にかけてサクサク刻まれた傷跡は、5年経った今でも立派に、太陽光や蛍光灯の明かりで白く照らされるケロイドとしてわたしの左腕に君臨している。
 人は日々変わりゆくもので、当時の自分が何故自傷行為をしないと気が済まなかったのか、今はもうあの頃の気持ちを正確に思い出すことはできない。出来るのは、あくまで今の私が昔の私を客観視したうえでの想像だけだ。
自傷行為の理由はきっと人それぞれで、時と場合によっても違ってくるのかもしれない。そう考えると他人の自傷行為に対して口を出すことなんて出来る権利はない。けれどあの頃、私が苦しんでいた確かなこととして、生きることがしんどくて仕方がないとき、どれだけ辛くても言葉で「辛い」と打ち明けることが出来なかった。投げやりな態度を見せるしかできず、怒りや恨み、悲しみの矛先を向けたい相手にも見つけてもらえるよう傷を付けて「今わたしは自分の体を傷付けるほど辛いんだぞ!」と自ら体現するしかなかったような気がする。
あの頃の私は今よりうんと幼くて、それしか伝える術を知らなかったのだ。他にも理由はいくつもあったのかもしれないけれど、今明確に想像できるのはそれくらいだ。

 ある程度深く刻んでしまった自傷跡は一度付けたら一生消えない。今はレーザーやビタミン注射などのリストカット専門治療、タトゥーによるカバーアップなんかもあるらしいけれど結局「事情は聞けないけど腕に傷跡がある人」からは一生卒業できないだろう。
今は毎日職場でわたし一人だけが長袖で出勤をしている。半袖を着て汗を拭きながら出勤してくるスタッフたちに「暑くないんですか?!」と聞かれても「毛剃るのが面倒なのよ!ワッハッハ」と返してズボラだということで片付ける策を取っている。前の職場でも一日中動き回る仕事なので常に汗だくだったけれどそうしていた。
今の時代、色々な人生を生きる人がいて、その人生のどれもが多様性として認められる時代だ。別にリストカットの跡があるからといってその人の評判に繋がるわけではない。そう、理屈では分かっていても、やはり病気であることを知らない人にこの腕を見られることは怖い。普段どれだけ「明るく年相応の普通の女性」として振る舞っていても、この傷を知られた途端「そういう一面がある人」という印象ステッカーをペタリと貼られると思うと、わたしの身体は真夏になっても左腕だけが一向に日焼けをしないままだ。
 精神障害者に馴染みがない彼氏の親御さんに会う時は尚更、絶対に長袖以外は着れない。例えばこの先子供が産まれてママ友との交流が出来たとしても、出来る限り隠し続けると思う。
 もちろん気にせず隠さず過ごせる人もいるけどね。それはそれで正しいし自分を貫き通せること、すごく尊敬する。

 今リストカットをすることが習慣化している子、辞めたいけれど辞められない子、むしろそれをすることが生きている証にすらなってしまっている子、人生に投げやりで辞める気もなくなっている子、色んな状況でリストカットをしている10代の子が居ると思う。
辛い気持ちを自傷することでしか表に出せない苦しみ、私は決して否定しない。間違えてるよ!自傷なんてダメよ!そんなこと言うつもりはない。ネットを見ているだけで若い皆さんの気持ちがひしひしと伝わってくるから、おこがましいことは言えない。
「20代半ばまで生きるつもりなんて無いんだからやったって何も問題ない」と思っているかもしれないし、わたしも当時は多分、そう思っていた。日が経てば経つほど太って醜くなってゆく自分は想像できても、普通に笑ったり食事して人並みの暮らしをできている自分なんて絶対想像できなかった。将来のためにリスカは良くないだなんて微塵も思えたことはなかった。
だけど今、私は昔と変わらず過食もするし体調も崩すけれど、辛くなることもたくさんあるけれど、一方で美味しいものを食べ面白いことがあれば笑い障害を隠しながらなんとか働くことができている。20代まで生きているなんて考えられなかったのに気がつけば後半に差し掛かろうとしているのだ。それも、わりと幸せな環境で。
だからこそ正直、今の自分にリフトカットの跡を「一生懸命生きた証」だとか「昔の自分があったから今の自分がある」だとか、綺麗事として前向きに捉えることはできない。「普通っぽくみえる」生活の中で困ることのほうが圧倒的に多くて、これに関してばかりは後悔ばかり、タラレバばかりの毎日だ。

 リストカットをしないといてもたってもいられないほど辛いことがたくさんあると思う。お母さんにもお父さんにも友達にも医者にも頼れない、誰も信用できない時気持ちのやり場がないときがあるよね、この先も生きてくなんて想像したくもないよね。つい、そう心の中で話しかけたくなる。
 けれど、今どんなに辛くて報われない皆さんにもちゃんと幸せな大人になれる権利があるのです
可能性は無限大にあるし、頼れる場所も本当は世の中のどこかに必ずあるのです
無責任なことは言っちゃいけないと分かっているけれど、大人になったとき、腕の傷を隠したいと思ったとき、これからの人生に希望が見えはじめたとき、初めてリストカットしていたことを後悔する日が来ます。そして、それは、ただ単に「リスカなんてしなければ良かった」ではなくて「これをする前にもっと誰かを頼れば良かったな」
この気持ち一択です。

自分の心と体を自ら傷付けなくても、ちゃんと口で言葉で文字で「辛い」と伝えていい。相手にしてくれない人や傷付く言葉を返してくる人もいるかもしれないけれど、世の中には幾つになってもどんな人にも敵もいれば味方もいます。
口から発したSOSを受け取ってくれる人は必ずいるので。
いのちの電話…はさすがにちょっと、頼りにならないかもしれないけど。わたしの場合は摂食障害の自助グループの相談ダイヤルにやっと繋がって大泣きしながら話をしたとき、とても親身になって聞いてもらえてすごく救われました。そのグループで送られてくる会報を読んだり投稿することも支えになったし。親とは分かり合えなかったけど、同性で歳の近い看護師さんは味方をしてくれました。ネットを通してリストカット跡を隠さなくても一緒にいられる大切な親友も出来て、色んなことを相談しあえるようになりました。

リストカットをしなくても心配してくれる人、助けてくれる優しい人間は世界にたくさんいるんです。
だから、どうか投げやりな気持ちにならないで。最後の力を振り絞ってカッターを握る手を携帯やペンに変えて、誰かに言葉で伝えてみて。
それでも傷付けたくて仕方がなかったら、輪ゴムでバチバチ叩くのも良いですよ。自傷であることには変わりないけれど、生涯にわたる傷は残らずに済むから。わたしも辞めたいけど辞められなくて苦しんだ時期、自傷をそれに移行していくことで少しずつ依存を抜け出せました。

 「リストカットをしたいほど辛くてたまらなかったんだ」と口と文字で発信してみて。自分を犠牲にする前に打ち明けてくれてありがとう、と抱きしめてくれる人は必ず居ます。
将来、色々なところでマナーとして隠さなければいけないシーンが増えて私のように悩まないでいてほしいから。
お節介な人間の話を聞いてくれてありがとう。

これ、どんな状態の自分も見捨てないでいてくれる大人はいると心から思える素敵な映画でおすすめですよ 何もかも前向きになれるわけじゃないけど、人に信じてほしいし人を信じたいと思える作品。誰にも会いたくない、外に出る気持ちになれないときは是非。




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