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心の「宇宙」とブラックホール

久しぶりのブログとなりました!
やめるつもりはないし、定期更新はしたいのですが、
なかなか思うようにいかず。
最近SNSでの発信をファッションメインにシフトチェンジしたので、
自己理解や自分の内面の深い部分について語れるこの居場所もめちゃくちゃ大事にしたいと思っています。
これからもゆるゆると更新を継続していくので、付き合っていただけますと幸いです!

今日から、手帳とコーチングの先生「ちる先生」の手帳の講座の受講がスタートして、
思いがけずまた新しく深い発見があったのでそれを綴りたいと思います。
書きたい!発信したい!とここまで思ってワクワクしたのは久しぶりです。

また自分の生い立ちと家族の話になります。
こちらの記事も過去に書いてきたので、置いておきます。
ちょっとヘビーな内容となります。
「こんな過去があって、かわいそう」ではなくて、
自分の気づきを整理して、また前進していくために書きます。

今、最も大きな課題

10月始まりの2025年の手帳がスタートした。
価値提供をする自己実現<やりたいこと>に大きく近づくこともそうだけど、
いま自分の一番の課題は「家族と向き合うこと」。

仕事では生徒の日々の変化や成長を感じることができて、
収入にも直結することもあり、モチベーションが維持できる。

友達関係はちょっとした気遣いや関係維持のための努力を要する。
表面化しないある程度のギブアンドテイクの関係が成り立っているのではないかと思う。
新しい世界や気づきを与えてくれたり、
時に支えてくれたり、楽しい時間を共有できる友達の存在はかけがえのないもの。

じゃあ家族は?というと、
頑張らなくてもその関係は成立するし、
一緒に居続けるもの。
子どもの日々の変化や成長はなかなか細く長いもので、
そういうモチベーションにつながるリターンは非常に少ないと感じる。
蒔いた種はなかなか発芽しないし、花が咲くのも遙か未来。この、もどかしさ。
この家族に対するモチベーションが上がらなくて、苦しい。
「自分」とは異なる存在。
でも自分に近い存在で、
仕事や友達ほど遠くはない。
この関係の困難さにずっとモヤモヤを抱えてきた。

家族のジャーナリングをしたり、
家族と向き合うためのガントチャート(笑顔で話す、話を聞く、などの日々の項目設定)をしたり、
自分なりに家族と向き合うために色々と試してきたけれど、
結局モチベーションが維持されずどれも続かなかった。


「存在感のなかった父親」が大きかった

「家族に対するモチベーションが上がらない」という自分の課題を伝えた時に、
ちる先生が「家族をないがしろにしても大丈夫、という感じかな」と整理してくれた。
まさに、それ。
っていうか、父親だわそれ。
今まではヒステリックな母親(上の「解放」の記事に過去の出来事を書いている)の“記憶の強烈さ”に埋もれていたが、
そうだ、それは父親だ。
と、はっとした。
まぁ、時代的に父親の不在なんて当たり前なんだろう。
「うちも、うちも」と同世代の人は思うのではないだろうか。

そこに自分は母親との閉鎖的な関わりがあって、

父→不在=家族のないがしろにする
母→自分の気持ちを受け止めてくれない

こんな環境だったと振り返る。


感情の置き去り。主語が全て「ママは」

ちる先生が、「悲しいことなのに、笑顔で話してくれるんですね…」とお話しした時に、
また気づき、自覚が降りてきた。
笑って誤魔化す。道化する。その自覚がある。
笑える場面じゃないのに笑ったり、とにかくやたら笑う。

自分は負の感情の「共有」がとても苦手である。

仕事や、友達関係で負の感情を「受けとめる」ことはできる。寄り添うことも得意としている。

でも、自分が持っているのを「感情剥き出しで」共有することは、嫌だ。
共有するタイミングは、
いつも「その感情のピークが過ぎて、冷静になって、自分なりの分析や事後処理が済んでから」である。

これも、剥き出しの気持ちを受け止めてくれた経験に乏しい、というか自分の記憶の中で皆無だからだと思う。

母親と感情剥き出しでぶつかった記憶がある。
母も私も、泣いていて。小学校低学年くらいだったかな。
でもその時も、母は自分の気持ちばかりを話していたのを記憶を漁ると思い出される。
「亜矢は初めての子だから、ママは……」
「ママは、亜矢のことを大切に思っているんだよ。もし目がだめになったらママの目をあげたいし……」
彼女の言葉は、全て「ママは」なのだ。
「亜矢は」が主語になって、
私の感情に触れてもらえた記憶がない。
感情を受け止めてもらえた記憶がないのだ。

だから自分の中には、
「剥き出しにされた感情は受け止めてもらえない」
という経験からの学習があるのだと思う。

SNSでその場の感情を発散することは好きだった。
感情に行き場が生まれるから。
そして、それを受け止めてもらえたか、そうじゃないかは、自己満足に委ねられるから、気が楽だった。
もちろんここには見えない他者が存在するわけで、
それを不特定多数の誰かに受け止めを強要するのは違うな、という他者目線が生まれて、やめたけれど。

「剥き出しの負の感情をこちらから伝えて共有する」
のも苦手だし、
「剥き出しの負の感情を受け止める」のも苦手。
そう、「家族」という距離感で。
うちの主人はよく泣く。泣き虫の男性なのである。
これも引く。(いや、普通引くかもな。私に限らず…)
ただ自分の場合、子どもがワァーッて泣いた時の嫌悪感も強いのだ。
赤ちゃんの「泣く」じゃなくて、
幼児の「泣く」。これが苦手だ。
多分これも、自分が受け止めてきてもらえてないから、感情の受容の仕方がわからなくて拒絶しているのだと思う。


全ては未来からの「脅し」

ちる先生からの、「今、家族がどんな気持ちになったら嬉しいですか?」という質問。

私の、家族に対するモチベーション。
それは、
「“今”、家族がこんな気持ちになってくれると“嬉しい”」
という「現在進行形」の家族に対する「感情」は皆無で。
「今こうしないと、“未来”がこうなってしまう。
(家族間での気持ちの分離、乖離、自分の孤独な世界、
子どもは自分と同じ原体験をして、
そのノイズに自分と同様苦しむのではないか、という末路)」
という“脅し”から全て始まっている。
全て「未来の脅迫から逃れるための逆算」なのである。

驚くほどに、今、目の前の家族に対する感情がそこにはなくて。
「理想の家族ってこんな感じだから、今これをやればそれにつながるかな」そういうことばかり考える。

目の前の家族の思いを見る感覚が、本当に無いのだ。
どうしたら見えるの?
どうしたら「家族がこんな気持ちになって嬉しい」とかって思えるの?
そんな感じである。

定期的にディズニーに行ったり、保育園や学校の行事を見て、
子の成長を感じる場面では感慨深い気持ちにはなることはある。
でも、そのくらい。「成長を感じる」こと以外のモチベーションがないのだ。

目を合わせて、笑顔で、感情を共有する。

剥き出しの負の感情だけでなく、正の感情の共有も難しい私。
なんでできないんだろうって思ってたけど、根が深い。
自分でもびっくりしたし、そんな自分でいることが「こわい」とすら思った。
でも今の自分のその状態が、現実なのだ。


課題の分離

ちる先生がまず話してくださったのは、「課題の分離」についてだった。
「子どもに、自分と同じような、共感してもらえない、満たされない原体験を与えてしまっている」
その結果を受け止めるのは「子ども」だから、自分を責める必要はない、ということ。
アドラー心理学が大好きで、
課題の分離はよくわかっていたし、
なんなら先日クラスの子たちにも話したばかりのことだった。
自分がそれを欠いていたとは……はっとした。
子どもは「自分で」それと向き合って、歩んでいく。
私もそうだ。私が今、私自身の原体験と向き合って、新しく前進しようとしている。


自己という「宇宙」の広さ

親である「私」と「子どもたち自身」の課題を切り離すことに加え、
自分の漠然とした未来からの脅し。
現在と向き合えていない状態。
これは「過去との対峙」、
「過去の私が“赦す”」ことが必要なのだ。
上の記事の「解放」では、
今の私は親を赦すことができたけれど。
過去の私は、過去の時間軸の中でずっと悲しんで、苦しんでいる。
現在の私がそれを抱き締めに行ってあげることはできたけれど、
まだ過去の私はくすぶっているようだ。
手帳でのワークができるようなので、向き合い、もっと自分の可能性を広げたいし、
今目の前の家族ともっとちゃんと向き合える自分になりたい。

手帳の話からここまで広がるとは思いもしなかった。
ただ、課題の原因の一つとなる「見えない何か」に気づくことができたことは大きい。
2023年10月→2024年9月の手帳の変化も、とても大きかった。(このことについても、ブログで語りたい)
また次の一年も、大きな変化が生まれそうだ。
そんな予感をさせてくれる、非常に濃い手帳セットアップの時間だった。
(今回は家族の話に特化して綴ったが、自己実現の話もたくさんした)

たくさん自己理解を深めてきたけれど、
どこまでも自分の宇宙は広い。
そのブラックホールの存在にも一つ、気づくことができた。
それと同時にコーチングの深みを感じた。

久しぶりの執筆でまとまりがなく。
でも、最後までお読みいただき、
ありがとうございました!

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