見出し画像

【Day25】仮面を外した時の“個”の「人間」としての姿

夢を見た。

鮮明に覚えているうちに、起きてすぐ
手帳仲間から教えてもらったジャーナリングを実践。
自分の方法で紙の大きさを変えたり、タイマー鳴った後も続けたりしたけれど。

1分タイマーをかけて、思考を言語化して書き出す。
私は今回A5サイズでやって4行くらいしか書けなかった。
でもとても深まった。


夢の内容。

高校時代の恩師で、「さっちゃん」という女性がいる。
もちろんこの呼び方は自分が学生の頃にしていたもので、
その後の教育実習でお世話になった頃には、
本来の教師と元生徒の呼び方の関係性となっていた。

彼女は、
勝ち気で、ハキハキしていて、物事をはっきり言う方で。
良いものは良い、だめなものはだめ、と。
そしてとにかく、
洞察力が鋭いことが印象に残っている。

私が中学校時代にいじめに遭い
(当時は「いやがらせ」くらいの感覚だったけど
 今の捉え方でいうと「いじめ」になるのだろう)
人間不信であったり、
人間関係を広げることが極端に苦手であったりしたこと、
抱えている「闇」の部分に、彼女は気づいていた。
そしてその時の気持ちに共感してくれた。
そこまで「わかってくれる」大人に出会ったのは初めてで、
私は深く感銘を受けた。
(親は過剰に心配して大騒ぎして、根本的な解決にはならないので一切相談したことはなかった。親は私との「心の距離」が近すぎたのだ。)
普段はサバサバしている様子でありながら、
生徒の感情には、そっとしなやかに寄り添う。
彼女の教師としての在り方は、
今の私の「人間」としての在り方の指針に通じている気がする。

今の私の在り方の指針は、
「太陽と月」。
パワフルでありつつも、
必要な時にはしなやかに相手に寄り添える存在でありたい。
そう考える。

そんな、「さっちゃん」が私の夢に登場した。
彼女とは実習のあと数年は連絡をとっていたものの、
今はすっかり疎遠で、
彼女は私の心の中で生き生きと在り続けているが、
現在進行形の関係ではない。

何かの行事をきっかけに彼女が誰かに会いに来た。教え子か。
そこでは私は彼女に声をかけ、話をする。
そこには私の今の教え子も一人居合わせる。
彼女はなぜか彼のことを知っている。
私は彼女に涙ながらに訴えていた。
その感情の波長の激しさだけがひしひしと伝わってくるようで、
なぜか第三者視点の私にはその詳細な思いは捉えられなかった。というか、
夢の中ではその詳細まで深めようとしなかったらしい。

別れ際、最近連絡ができていなかったから、
確認をしたいと私が言う。
連絡先は全部変わってしまったけれど、
教えない、と言われた。
おそらく、彼女の中で私は彼女を卒業すべきなのだろう。
そんなメッセージを感じ取った。
でも私は彼女に執着して、しつこく居座って迷惑をかけるような形で、わがままを押しつけて、
電話番号だけ教えてもらった。

そのあと別の場面に切り替わった。

私が彼女に涙ながらに伝えたかったことは何だろう。
おそらく同じ教員同士として、
独特の辛さ、モヤモヤ、やりたくないこともあること、
でもやっていること、を
受け止めてもらおうと思ったのだと思う。
10年越しでようやく故郷の自治体で教壇に立てたこと、
11年越しで念願の初担任をもつことができたこと。
自分の成長も含めて。

それをわかってもらったり、
共感してもらったり、
ほめてもらったり、
場合によっては「安田、それは違うと思う。」って言ってくれたり。(旧姓)

私にとって
「それは違う」と言ってくれる人、
そしてその人の言った指摘を受け止められる関係は貴重である。
そしてその価値観は、
「彼女が教員だから」という<信用>じゃなくて、
彼女の一個人の人間としての<信頼>があるからこそ受けとめられるのだと思う。
教員だから、偉そうにしているから ではなくて、

「あの人と人間と人間として接したときに、信頼できる。ついていきたい。」

って最高じゃないか。
教師と生徒ではなく。

※「信用」は条件付き
 「信頼」は無条件に“信じる”こと

教育実習中に、彼女が大切にしていると言っていた言葉
を思い出した。

「教師である前に、人間でありたい。」

彼女は、そのメッセージを改めて私に伝えに来たのかもしれない。
教師としてあるべき姿は、
一人の「人間」として、
教師の仮面を剥いでも変わらず在り続けてほしい。
夢に出てきて、
私にあるべき姿を暗示し、示唆する姿。
私も約10年間で誰かにとってそんな存在になれたのだろうか。
いや、自分はまだまだ傲慢で、偉そうにしていて。
あらゆることに、敬意が足りない。

これから目指す姿が見えた。


最近、
東野圭吾の「マスカレード」シリーズ、第3弾の『マスカレード・ナイト』を読んだ。
ホテルには様々な「仮面」をつけた客が訪れる。
その仮面を剥いではいけない。
その仮面が客が気づかずに何らかの形で外れてまったとしても、ホテルマンはそれに気づかないふりをしながら接しなければならない。

私も、たくさんの仮面を持っていて、
それを付け替えながら、日々生活している。
母の仮面。
教師の仮面。
プライベートの仮面…
小柄さんと一緒にいるときの仮面。
ディズニー友達と一緒にいるときの仮面。
手帳好きの仮面。
などなど。

あなたは、どんな仮面をつけていますか?
色んな仮面を次から次へと付け替えているうちに、
仮面の下の「ありのままの自分」。
見失っていませんか。
自分の「本音」とか、
本当の「好き」とか、
わからなくなっていませんか。
あらゆる「自分」の姿が存在することは、とてもいいこと。
例えば仕事でうまくいかなかった時に、
帰ってきて我が子と接する中で傷が少しずつ癒えていったり。
あるいは、その逆もあったり。

ただ、そういう「多層的」な自分の在り方の中で、
仮面をつけていない「個」の自分を見つめたとき、
それが空っぽでは、本当には満たされない。

あなたは、どんな人間ですか?
.
.
最後までお読みいただき、
ありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?