私と雨と猫

鼻腔を、甘い水の匂いがすぅとかすめた。
かすかにそよぐ空気が運んできたその匂いに、空を見上げる。
ごく最近、この匂いに、ペトリコールという名前がつけられているのを知った。
ペトリコール、ペトリコール。
口の中のみでそっと呟いてみる。
どこか楽しい、美しい響きだ。
ぽつ、と額に雫が落ちる。こちらの行く手を阻むように爪先に雨粒が落ち、コンクリートに点々と黒い染みを穿っていく。
眼鏡が汚れないよう顔を伏せながら、手にしたおろしたての傘を開いた。

風除室の中へ身体を滑り込ませ、軽く水滴を払った傘をすぼめる。
雨は道中に本降りになり、今もざあざあと大きな水音を奏でている。
薄い紗を張ったように霞む景色の中、水の匂いに包まれながら歩くのは、少しだけ非現実感があって、嫌いではない。
ずっしり重いスーパーの袋を持ち直し、玄関へ続く階段を登りながら、何気なく左を見遣った。
家の外壁と車庫の間は、ごく小さいスペースがあって、地面が剥き出しになっており、木を植えてあったり、プランターや植木鉢が置いてある。
そこに、一匹の黒猫がいた。
雨で濡れた地面に腹這いになり、こちらをじっと見上げている。
ちょうどそこは屋根の庇の下になっているので、雨宿りをしているのだろう。
数ヶ月前の夏の盛り、車の下で涼をとっていた子に似ている。
よくよく見れば、艶々とした漆黒の毛並みを持つ、とても可愛い子である。
瞳の色は遠目ではっきりしないが、かすかに緑がかっているようにみえる。
猫は逃げる様子もなく、あたりをきょろきょろ見渡したり、近くに生えている草の匂いを嗅いだりしている。
片腕にかかる重みも忘れて、思わず鞄からスマホを取り出した。
カメラを起動させたそれを、黒猫へ向ける。
写真を数枚、さらに動画撮影モードで数分。
無言でスマホを構えるこちらを、黒猫はやはり感情の読めない瞳で、ただ見上げるだけ。
あえて台詞をあててみれば、「よくわからないやつだけど、がいがないからほうっておこう」あたりか。
そんなことを考えている自分がなんだか可笑しくて、思わず頬が緩む。

時間としてはたぶん5分にも満たぬ短いものだったが、そろそろ腕が痛くなってきた。
撮影を終えて、保存した画像と動画を軽く確認してみる。
実はこの距離で猫を見たのは初めてなのだ。
普段はほんの半歩ほど足を踏み出すだけで、ぱっとどこかへ逃げられてばかりいたので、少し嬉しい。スマホカバーを閉じて、再び視線をあげれば、既に猫はいずこかへ去った後だった。
1日の終わりに、小さな贈り物をもらった気分だ。
このところ仕事が立て込んでいて、重く沈んでいた心が少し軽くなる。
鞄にスマホを仕舞い、袋を持ち直す。
またね、と小さく呟いて、玄関扉へと手を伸ばした。


 

                                 了

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