マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第35回「シーフードパスタ」

人生には1回はモテ期があるといわれるが、私の場合それは25歳の秋だったのかなと、今は思う。大学受験で1年浪人し、大学で1年留年しているので私が働き始めたのは24歳の4月だった。一般の会社に就職するというイメージのわかなかった私は、ありがちだがマスコミ関係に行きたいと考え、新聞社、出版社、広告代理店など手当たり次第に受けた。
しかし、結果はあえなく全敗。中には役員面接まで行ったり、「申し訳ありません、補欠になっておりますので、他の方の返答次第です。少しお待ちいただけますか」という出版社もあったが、結局は待つだけで終わり、捲土重来を期して1年の留年を決めた。
とはいえ、就職浪人しても受検の間口が狭まるだけで、効率はあまりよくなかった。親の負担を少しでも減らそうと、家具メーカーのパイロットショップの配送トラックの上乗りのアルバイトを探して働いていたが、下手するとそれが本業になりそうな感じになってきた。父親からは、地元の町役場の試験をを受けられるようにしたから、戻ってきたらどうかといってきて、いよいよ切羽つまってきた。
そんな時、たまたま見かけた朝日新聞の仕事欄で見かけたのが書店の募集だった。書店ならマスメディアの川下ながら、まったく関係ないことはないと自分を納得させて、入社試験を受け就職を決めた。親会社は日本で初めて、プレハブのマンションを分譲した住宅メーカーで、スーパーマーケットや書店などにウイングを広げ、生活総合産業化を目指していた。そうした会社側の思惑など知る由もなく、私は東京での暮らしを継続させることになった。

女性がほとんどの書店の職場

職場は東京郊外の駅前の店舗。その当時書店の多くは個人経営の小さな店がほとんどで、50坪の店舗はかなり大きいほうだった。売上もその町では、おそらく一番だったと思う。従業員も多かった。主体は主婦のパートタイマーで彼女たちには文庫、コミック、実用書、学習参考書などそれぞれの部門を担当してもらっていた。
その主婦たちが3時頃に引き上げると、代わって学生アルバイトがレジに入ったり、売場の片づけをしてくれる。驚いたのは午前中のパートタイマーにしろ、午後のアルバイトにしろ、そのほとんどが女性で男性は、本社から出向している店長と私、アルバイトの大学生の3人だけで、9割以上は女性だった。
書店で働き始めて驚いたのは、配本が取次任せで、売りたい本が入ってこなかったこと。ベストセラーが入ってこないのは言うまでもなく、大学時代に読んでいた人文関係の本やサブカルチャーの書籍が入荷せず、ごく当たり前の品揃えの町の本屋に過ぎなかった。そこで、当時取次の水道橋支店へ行って、扱いたい本をピックアップして届けてもらい、自分好みのコーナーを作っていった。一例をあげれば、晶文社の植草甚一や稲垣足穂の本、演芸関係では小林信彦や戸板康二などの本を集めてみたのだが、そういった本が売れていくと思わず小さくガッツポーズをしたりした。
入社してからしばらくは、取りあえず仕事に慣れることに専念し、少し慣れてくれば自分なりのコーナー展開に力を入れていた。ただ、当然ながら失敗もあった。店長と交代で早番、遅番で出勤していたが、朝9時の出勤時間に間に合わず、パートタイマーの人たちを待たせてしまうこともあった。そんな時は早朝に届いていた雑誌や新刊本の整理が間にあわず、雑誌の入れ替えや新刊書を棚に入れながら、営業するという状態になってしまう。

いいなと思う女性、されど彼女は人妻

4月に入社して瞬く間に1年が経過したが、一人よく話しをする女性が現れた。担当が文芸書ということもあり「この新刊は、どこの棚に置きましょう」といった相談も多く、仕事中にも軽口をたたきあったり、「今日は旦那のボーナスが出たからお昼をおごってあげる」と誘われて一緒の昼食を食べたりした。もちろん、そんな場合、もう一人気の合うパートタイマーの女性を誘って3人で行くことが多かった。
私がこの女性をいいなと思ったのは、見てくれはかなりグラマーでセクシーなのだが、性格的に非常にさばさばしていて、話していても疲れないからだ。その彼女から「気候もいいし早番明けの夕方5時から小金井公園を散歩しましょう」と誘われて、二人の仲は急速に進展することになる。
店から小金井公園まではそれほどの距離ではなかったが、知り合いに会うといけないので、かなり急いで向かった。現地についてからは、さすがに誰もいないだろうということで、花盛りのさつきや、早咲きのアジサイを楽しみながら散策した。そしてSL広場に差し掛かったのは6時半ごろだったろうか。「あっ!SLだ」と思い駆け寄り、しばらくその雄姿を眺めていたが、どこにそんな勇気があったのか、私は急に彼女を抱きよせ、唇を奪っていた。最初は彼女からは「あっ」という小さな声が聞こえ、少し押し返す感じがあったが、やがて力が抜け二人はキスをしたまま抱き合っていた。
やがて二人は早番の時に井の頭公園に行ったり、休みには巣鴨の六義園をぜひ見せたいということで柳沢義保が作った庭園を巡ったりした。小金井公園の後、二人の仲は急速に近づき、三鷹から行った井の頭公園の時など、人目のない場所では口づけを交わし、公園のベンチではブラウスの上のボタンを外して、ブラジャーの中に手を差し入れ、彼女のおっぱいの感触を楽しんだりした。公園の帰りには有名なコーヒーショップでコーヒーを飲んだが、階段の踊り場でキスをするなど,今から思うと結構いかれたカップルだった。

阿部公房の全集を処分してパスタを作る

私たちが初めて結ばれたのは6月20日過ぎの私が休みの平日だった。この当時まだ週休2日になっていなかったのは時代を感じさせるが、この日お昼を食べずに遊びに行くからと前日耳打ちされていた。「しかし、困った、給料日前でお金がない。そこで私は頑張って読もうと買ったはいいが、それほど進んでいなかった阿部公房全集を、駅前の古本屋で処分、イカ、エビなどの材料を買い込んでトマトで味付けしたシーフードパスタの用意をすると、彼女を迎えに行った。そのいきさつを説明しながら、パスタを出すと「馬鹿みたい」と一蹴され、感動させるには至らなかった。
ただ食事のあとは予想した通り、まずキスから始まり、お互いパンツだけになって私は、柔らかな彼女の体の感触を味わった。そしていよいよ、その時が近づくと、さすがに人妻だけあって彼女はコンドームをひと箱取り出して手渡してくれ、私はそれをつけて彼女の中へ入っていった。
その後,二人は茅ケ崎のホテルへ泊まりに行ったりした。そのあと彼女は幼馴染だったご主人と離婚、仕事も変わり週1回程度会う生活になった。あえばお茶したり、食事のあと必ずといっていいほどSEXした。彼女を抱き射精すると、男というのはあれほど、体が軽くなることを実感したのも、そのころだ。当然、私は結婚を意識するようになっていたが、新しい年が明けたころから、あれほど好きあっている二人の仲は疎遠になり、私の「モテ期」はあっさりと消えていった。


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