やまぐちたくじ

分かりやすく、偏りなく流通業の現状と今後の方向性を伝えます。また街で見かけた話題や、暮…

やまぐちたくじ

分かりやすく、偏りなく流通業の現状と今後の方向性を伝えます。また街で見かけた話題や、暮らしに役立つ情報などをレポートします。さらに新たに事業を起こしたり、起そうとしている人に役立つ情報を伝えます。30歳になる前から、流通業や日本酒の記者をしてきました。

マガジン

  • 日本酒取材ノート&日本酒余話

    過去30年余の日本酒業界の動向を取材を通して得た、情報をもとにまとめてみました。主として灘・伏見のNB日本酒メーカーを取材しており、大手メーカーの動向と関連する地酒、地元酒などのついてもまとめ、日本酒業界を俯瞰しました。

最近の記事

マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第34回「偉人伝」

私は4人兄弟の末っ子として生まれた。女・男・女・男ときれいに男女別になっている。しかも年齢的には5歳刻みになっており、一番上と私では15歳も違う。両親は戦中に神戸で結婚、戦争が激しくなり、食料不足になったため、父親の出身地である淡路島に子ども二人を連れて一家を挙げて疎開、そのまま淡路島に住み着くことになった。したがって下の姉と私は淡路島生れの淡路島育ちだ。 父親とすれば淡路島に帰り、実家の援助を受けられるかもしれないと考えたようだが、戦後の農地解放もあり、実家も苦しくわが家の

    • 街探シリーズ<14>西荻裏通りから女子大通り、宮本小路を経て吉祥寺まで歩く

      西荻窪は荻窪と吉祥寺に挟まれているため、どこか影の薄い感じがする。しかし、何度か足を運ぶと、いたるところにサブカルチャーの空気が漂う面白い街だ。隣り合う武蔵野市吉祥寺とは、区部と市部の違いがあるため、遠い存在と思われがちだが、意外に関連性もある。今回はそんな西荻から吉祥寺までの裏通りを歩いてみた。 JR西荻窪駅北口の目の前の道路が、一番街商店街だ。この商店街も老舗のベーカリーや健康志向商品に特化した薬局、足指ケアの専門店など個性的な店舗が多い。しばらく行くと突き当りに2軒のバ

      • マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第33回「アジの酢の物」

        私の田舎は淡路島の南西端で、すぐ目の前に鳴門海峡が見える海沿いの村だった。人口はせいぜい500人ほど。半農半漁の小さな村で、地名の由来は「網長浦」だったことからもわかるが、長い砂浜のある地形だった。このように、集落に住む人の生業は漁師か農家という中で、わが家は父親が小学校の教員だった関係もあり、日々の暮らしは、そのような生業とは無縁なところにあった。友達の家の田んぼで田植えを手伝うことはあっても、遊びの延長のようなもの。 家が漁師の場合は、割と小さい頃から小魚をさばいたりする

        • マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第32回「ペペロンチーノ」

          さすがに50年近く前になるから詳細は記憶にないが、大学2年の秋、教養ゼミの友人と木曽路を回り、温泉に1泊したことがある。妻籠宿から馬籠宿を歩き、江戸の宿場の風情に浸った。そこそこ人出はあったが、最近のような大混雑ではなかった。老舗のお蕎麦屋さんも割と空いていて、食事もすんなり済ませることが出来た。 その日の宿は王滝川の支流のほとりにある「ランプの宿」を友人が父親から聞いていたので、そこを予約していた。しかし、宿につくまでが一苦労だったことは、よく覚えている。上松まで電車で戻り

        マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第34回「偉人伝」

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        • 日本酒取材ノート&日本酒余話
          12本
          ¥700

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          街探シリーズ<13>玉川上水・三鷹駅から境水番所までを歩く

          私が東京へ出てきたのは、1972年4月のこと。葛飾区亀有、渋谷区幡ヶ谷と転居し、杉並区阿佐ヶ谷に住み始めたのは1974年4月からになる。正確には覚えていないが、初めて三鷹駅から玉川上水を歩いたのは1975年頃ではないかと思う。高校生の頃から太宰治は読んでおり、大学に入学してよりいっそう傾倒していたので、玉川上水には興味があった。 しかし、最初の印象はちょろちょろと水が流れているだけの、水路というにはあまりにもお粗末な代物で、イメージは良くなかった。そのため、1980年には三鷹

          街探シリーズ<13>玉川上水・三鷹駅から境水番所までを歩く

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第31回「金山寺味噌」

          私が金山寺味噌を美味しいと思いはじめたのは、60歳を過ぎてからだ。昔から中に漬け込まれている「白うり」は好きだったが、年齢を取るにつれ味噌そのものを美味しく感じるようになった。 最近、凝っているのは初夏の露地栽培のキュウリを間引いたどどりのものを、金山寺味噌で食べることだ。キュウリは割と青臭い野菜だが、若どりキュウリは、よりいっそう青臭い。それを金山寺味噌を絡めて食べると、その青臭さが消え、さわやかさが口いっぱいに広がる。 それと、いわゆる「冷や」の日本酒を合わせると絶妙。ち

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第31回「金山寺味噌」

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第30回「酒粕の砂糖包み焼き」

          小さい頃の食事にいつも汁ものがついていたかどうかの確かな記憶はない。毎回ではなくとも味噌汁がついていたはずだが、どんな具が入っていたかほとんど覚えていない。ただ、私が初めて作ったのは味噌汁だった。母親に聞いて煮干しで出しを取り、具材は油揚げだったか、火が通ったところで味噌を溶きメインのおかずに合わせたのではなかったか。 しかし、汁物で鮮やかに記憶に残っているのは粕汁だ。母親が西宮生れということもあり、関西で多い粕汁がよく出てきた。粕汁の印象が鮮やかなのは、味噌汁よりも具沢山で

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第30回「酒粕の砂糖包み焼き」

          流通事件簿13「日本からスーパーストアが消える」

          GMS(ゼネラル・マーチャンダイズ・ストア)といわれる大型スーパーストアの原初的な形態、日本に登場したのは1960年代後半だった。以来60年弱になるが、いよいよその業態としての役割を終えようとしている。21世紀に入って2000年代にマイカルが消え、2010年代にダイエーが実質倒産、この2社はいずれもイオンに吸収された。 そのイオンは、24年2月末、ツルハとウエルシアの経営統合を発表した。枠組みはイオンがツルハの株式を買い増して子会社化して同社を傘下に入れる。事業会社はツルハが

          流通事件簿13「日本からスーパーストアが消える」

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第29回「父のシチュー」

          父親が亡くなってから、間もなく42年になる。年末に子どもが生まれて、その子を見せようと思って帰省した当日、肝臓がんで亡くなった。入院していた病院が徳島だったので、朝10時過ぎに徳島の松茂空港に着くYS-11を取っていたのだが、迎えの人間に開口一番「ダメだった!」と告げられた。73歳だった。 それほどくわしく聞いたわけではないが、父親の人生は功罪相半ばするようだ。生れた家は淡路島の西南端の山林地主の分家だった。江戸時代に海草の「あらめ」をで瀬戸内海沿岸に卸して回り、合わせて各地

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第29回「父のシチュー」

          街たんシリーズ<12>西国分寺駅を起点に豊かな自然の中の史跡をめぐる

          地名の由来となった武蔵国分寺が最寄りのJR西国分寺駅ができたのは、意外に新しくて昭和48年(1973)のこと。今では環状鉄道の武蔵野線の乗換駅として存在感が増している。その西国分寺駅北口を出てしばらく行くと「史跡通り」になる。この通りは、西国分寺駅ができたのをきっかけに、地元の人が自ら名乗り、自動車の乗入れ制限を実施して「伝鎌倉街道」や「武蔵国分寺跡」につながる先ぶれの通りとして、半世紀後の現在は風情のある佇まいを呈している。 この史跡通りから600メートルほど行くと、中央線

          街たんシリーズ<12>西国分寺駅を起点に豊かな自然の中の史跡をめぐる

          流通事件簿12「イオンが覇権を狙うよなったった日」

          いまドラッグストア業界では、イオンによる「ツルハ」の本格グループ入りのため、香港系投資ファンドのオアシスのツルハ持ち株のTOBが大きな話題になっている。これが成功し、ツルハがウエルシアとともに、イオンの傘下に入ることになれば、ドラッグストア業界に占めるイオンの売上は、ウエルシア、ツルハ以外のチェーンも含めると2兆円を超え、シェアは優に3割を超える。 さらにツルハを子会社化することで、北陸から信越、中部、関東、近畿などへ出店エリアを拡大し、売上高は3000億円を超えてきたクスリ

          流通事件簿12「イオンが覇権を狙うよなったった日」

          街探シリーズ<11>仙川・つつじケ丘散歩

          仙川は調布では最も新宿寄りになる。以前は京王線の各駅停車しか止まらなかったが、最近は快速や区間急行も止まるようになり、ずいぶん利便性が増した。それだけ同地区は開発投資が活性化しているエリアだ。 特に仙川駅南口は、桐朋学園を中心にした学園都市の雰意気もあり、隣接の世田谷区方向に歩くと、ゆっくり行っても30分もすれば成城学園になる。途中、お寺の一角を借りて営業しているカフェがあったり、ヤオコーの漢字名の「八百幸成城店」唯一出店していたり、神戸屋のカフェベーカリーが昔から、おしゃれ

          街探シリーズ<11>仙川・つつじケ丘散歩

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第28回「餅入りぜんざい」

          自分でいうのもなんだが、割と女性には晩生で、高校に入ってからも女の子と話す機会はあまりなかった。まして、女性とお付き合いするなど、もってのほかだった。 ところが、高校3年になった4月早々に、クラスの女の子から「〇〇くんに付き合ってほしいという子がいるんだけど」と声をかけられた。私が通っていた高校には、自宅が遠くて通えない生徒が借りる下宿があり、同じ下宿の子だという。その下宿に入っている子は何人か知っており、一瞬あの子だったら、どうやって断ろうと思った。 その心配は杞憂に終わり

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第28回「餅入りぜんざい」

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第27回「ティーカップとショートケーキ」

          私が淡路島の実家を出て、一人暮らしを始めたのは高校を卒業した18歳の時。高校時代あまり勉強しなかったせいで、現役の大学受検は全て失敗、予備校に入るため神戸で暮らし始めた。 しかし、裕福な家ではなかったので、母親の親戚が神戸の稲荷市場で精肉店を営んでいたので、そこが倉庫に使っていた棟割り長屋の2階を住めるようにしてもらい、アルバイトをするかわりに、家賃をチャラにしてもらって住むことになった。 だいたい一日の生活は、9時から授業が始まるので自転車で予備校へ通学、昼ご飯は予備校の近

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第27回「ティーカップとショートケーキ」

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第26回「おでんの八ツ頭」

          かつてマーケティングの会社で働いていたころ、飛島建設が設立した飛島時間開発という新しい会社と仕事をしたことがある。同社は飛島建設が経営不振に陥った時、自社で保有している絵画を平川町の自社ビルに展示、その運営が主たるミッションだった。 しかし、トップに就任した人が、ただ美術館の運営だけではつまらないと考え、「時間」を軸にしたビジネス開発を目標にした。そこで、そのころ私が働いていた会社が、コンサルティングというか、時間の勉強会を同社を立ち上げた。勉強会にはスタッフが全員参加し、「

          マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第26回「おでんの八ツ頭」

          街探シリーズ<10>石神井側川沿いの低地から石神井台の高台を歩く(後編)

          武蔵関というのは、駅の名称であり、古来この地区は「関」と呼ばれてきた。江戸時代は武蔵国豊島郡関村であり、いくつかの変遷を経て、昭和24年に東京都練馬区関町となり、昭和53年のは関町が、関町北、関町南、関町東に住所表記が分かれた。つまり、この地域はもともと「関」と呼ばれており、関町となったのは比較的最近のことだ。 ちなみに大きな区分では、関町は石神井の一部と考えられる.「関」という地名になったのも豊島氏が石神井城の守りを固めるため、関所を置いたからである。また青梅街道を挟んで南

          街探シリーズ<10>石神井側川沿いの低地から石神井台の高台を歩く(後編)