やまぐちたくじ
過去30年余の日本酒業界の動向を取材を通して得た、情報をもとにまとめてみました。主として灘・伏見のNB日本酒メーカーを取材しており、大手メーカーの動向と関連する地酒、地元酒などのついてもまとめ、日本酒業界を俯瞰しました。
武蔵野市に住み始めて40年以上になるが、自然の川がなかったなどという事は考えたこともなかった。その一つの要因は、1986年に清流復活事業で玉川上水の水が戻り、玉川上水が疑似河川として意識されたことが考えられる。二つ目の要因は埼玉県や山梨県のように「海なし県」は話題になることはあっても「川なし都市(町)」が取り上げられることはなかったからだろう。 しかし、よく考えてみると玉川上水は江戸市民のための水道として整備された用水であり、決して「川」ではなかった。それは玉川上水の緑道を散
バスで三鷹から調布へ行くには、二つのルートがある。ひとつは三鷹通りから八幡前で連雀通りへ右折、塚の交差点を左折して境大通りを行くコース。道路がきれいに整備されたことと、神代植物公園、深大寺西参道があることから表通りのイメージがある。調布に用事があるときは、もっぱらこちらのバスを使っていた。もう一つはさくら通りからむらさき橋通りに入り、三鷹通りを行くルート。JAXAの本社があるかと思えば、諏訪神社、青渭神社、深大寺東参道を経て調布の旧布田宿に至る。ある時、別ルートがあることを知
若い女性にとってあこがれの街の一つである吉祥寺だが、ほんの370年前には跡形もなかった。中央線の線路を挟んでほぼ対象にある三鷹の下連雀、上連雀も同様に何もなかった。それは武蔵の国の国府が置かれ、江戸時代には甲州街道の宿場町として賑わった調布や府中とは対照的だった。 それというのも武蔵野台地の吉祥寺や牟礼のあたりは、農業に必要な「水」がなく、自然のままに生えてくる茅や薄に任せるしかなかったのだ。農業をするには地味は豊かとはいえなかった。したがって、徳川家が駿河から関東に入部して
第3回「EV自動車ワイヤレス充電」 私の出身地は兵庫県の淡路島だ。瀬戸内海気候で温暖だが、最近は御多分にもれず猛暑に苛まれている。島内で唯一測候所が置かれている郡家観測所では、今年40日連続の猛暑日を記録した。 このように気温は上がっているが、雨が少なく、日照時間が長いことから、農業は水不足に悩まされ、それを解消するために、島内の至るところに「ため池」が作られ農業用水の確保が図られた。 地形的には南は徳島県が指呼の間に望まれ、東は大阪湾、西は播磨灘に面している。つまり太陽は
三鷹市牟礼の最寄り駅は京王井の頭線の三鷹台駅だが、ここは牟礼の外れになり、中心エリアは駅前通りを10数分行った三鷹台団地のあたりになる。今では、牟礼は三鷹郊外の住宅地だが、現在の三鷹市域の中では、牟礼村の開発が始まったのは、大沢村、上仙川村と並んで1590年ごろと非常に早かった。1590年といえば、小田原の後北条氏が豊臣秀吉に攻め滅ぼされた年であり、関東に徳川氏が入部、関東平野がその後大きく構造変きっかけになった時期に当たる。 三鷹市牟礼は現在はイメージ的には、吉祥寺の郊外住
三鷹駅からバスに乗り、三鷹通りを使って調布駅へ行くルートがある。三鷹市役所を少し行くと、JAXA(宇宙航空技術開発機構)の本社があり、青渭神社と深大寺を過ぎるとかつての布田五宿の一つ布田宿になる。今は深大寺植物公園経由で行く道路がメインなので、裏街道の感は否めない。 途中、青渭神社の手前に諏訪神社があり、「あれ、こんなところにお諏訪様があるとかねて気になっていたが、バスの窓から見る限りいかにも寂れた感じがして、バスを降りるのをためらっていた。近くであれば水谷豊が子供時代に遊ん
第2回「腐葉土ビジネス」 エコノートの2回目は「腐葉土」による土の消失防止である。畑や田の土は永遠に存在するものと思いがちだが、このまま無茶な農業を続100年のうちに、、世界の畑の16%で表土の30㎝が失われてしまうという、かなり確かな予測がある。 また、「土」は「non-renewwableresouce」とも言われるように、再生がかなり難しい資源である。長い年月をかけて石が分解され、動物の死体などの有機物と混ざり合って新たな土が出来なくはないが、その再生のスピードよりも
第1回「棚池発電」 エコロジーをベースとした、スターための「アイデア」「コンセプト」などをまとめてみた。当然アイデアベースのため、それが実現できるかどうかについては、フォローしなければならないことはある。ただ、それにこだわりすぎるあまり、大筋を見失うとビジネスの方向性も見えなくなるため、技術開発が必要かも知れないところは、そのままにした。 新規連載の第1回として「棚池発電」を取り上げることにした。棚池とはやや聞きなれない言葉だが、インバウンドで来日した外国人に人気が出てい
10年以上、所沢へは行っていなかったから、その変貌ぶりには驚いた。駅ビルの「グランエミオ」ができ、今年秋には、西武鉄道操車場跡地を再開発した「エミテラス」がオープン、いよいよ所沢駅を核にした新しい街が誕生する。 しかし、所沢といえばかつては所沢駅西口前に、西武百貨店があり、そこから続く商店街(現プロぺ通り)に勢いがあった。また、この商店街が終わるとファルマン通りになるが、そこにダイエーが進出、所沢戦争として大きな話題になった。つまり、かつての所沢は地域主導の街がにぎわいを生み
私はかれこれ40年以上武蔵野市に住んでいる。ご存じのように武蔵野市に川はなく、流れといえば玉川上水のみ。隣の三鷹市には野川や仙川が流れているのと比較すると、何となく潤いにかけるイメージがある。三鷹の大沢まで足を伸ばすと、野川公園が整備され、広い河原を持つ野川が流れている。武蔵野市民にとって野川は玉川上水ほど身近な存在ではないど、気になる存在ではあった。まして、その源流が日立製作所中央研究所の中の湧水だと聞くと、下水の処理水を流している玉川上水よりはロマンがある。そこで、小金井
人生には1回はモテ期があるといわれるが、私の場合それは25歳の秋だったのかなと、今は思う。大学受験で1年浪人し、大学で1年留年しているので私が働き始めたのは24歳の4月だった。一般の会社に就職するというイメージのわかなかった私は、ありがちだがマスコミ関係に行きたいと考え、新聞社、出版社、広告代理店など手当たり次第に受けた。 しかし、結果はあえなく全敗。中には役員面接まで行ったり、「申し訳ありません、補欠になっておりますので、他の方の返答次第です。少しお待ちいただけますか」とい
住みたい街では、常に上位にある吉祥寺。中央線沿線の街としては、その人気は昔も今も高い。それを追うのが立川だ。中央線の一日の乗降客数では吉祥寺を抜いている。南武線、青梅線の始発駅であり、中央線の周辺駅からも集客が期待できる立川は、ターミナル駅としては、京王井の頭線だけの吉祥寺よりは圧倒的に優位に立っている。しかも、立川は多摩モノレールによって、これまで自家用車やバスしか移動手段のなかった、エリアを来街ゾーンに組み込むことに成功、懐の深い三多摩の中心都市になった。 かつて立川とい
私は4人兄弟の末っ子として生まれた。女・男・女・男ときれいに男女別になっている。しかも年齢的には5歳刻みになっており、一番上と私では15歳も違う。両親は戦中に神戸で結婚、戦争が激しくなり、食料不足になったため、父親の出身地である淡路島に子ども二人を連れて一家を挙げて疎開、そのまま淡路島に住み着くことになった。したがって下の姉と私は淡路島生れの淡路島育ちだ。 父親とすれば淡路島に帰り、実家の援助を受けられるかもしれないと考えたようだが、戦後の農地解放もあり、実家も苦しくわが家の
西荻窪は荻窪と吉祥寺に挟まれているため、どこか影の薄い感じがする。しかし、何度か足を運ぶと、いたるところにサブカルチャーの空気が漂う面白い街だ。隣り合う武蔵野市吉祥寺とは、区部と市部の違いがあるため、遠い存在と思われがちだが、意外に関連性もある。今回はそんな西荻から吉祥寺までの裏通りを歩いてみた。 JR西荻窪駅北口の目の前の道路が、一番街商店街だ。この商店街も老舗のベーカリーや健康志向商品に特化した薬局、足指ケアの専門店など個性的な店舗が多い。しばらく行くと突き当りに2軒のバ
私の田舎は淡路島の南西端で、すぐ目の前に鳴門海峡が見える海沿いの村だった。人口はせいぜい500人ほど。半農半漁の小さな村で、地名の由来は「網長浦」だったことからもわかるが、長い砂浜のある地形だった。このように、集落に住む人の生業は漁師か農家という中で、わが家は父親が小学校の教員だった関係もあり、日々の暮らしは、そのような生業とは無縁なところにあった。友達の家の田んぼで田植えを手伝うことはあっても、遊びの延長のようなもの。 家が漁師の場合は、割と小さい頃から小魚をさばいたりする
さすがに50年近く前になるから詳細は記憶にないが、大学2年の秋、教養ゼミの友人と木曽路を回り、温泉に1泊したことがある。妻籠宿から馬籠宿を歩き、江戸の宿場の風情に浸った。そこそこ人出はあったが、最近のような大混雑ではなかった。老舗のお蕎麦屋さんも割と空いていて、食事もすんなり済ませることが出来た。 その日の宿は王滝川の支流のほとりにある「ランプの宿」を友人が父親から聞いていたので、そこを予約していた。しかし、宿につくまでが一苦労だったことは、よく覚えている。上松まで電車で戻り