マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第28回「餅入りぜんざい」

自分でいうのもなんだが、割と女性には晩生で、高校に入ってからも女の子と話す機会はあまりなかった。まして、女性とお付き合いするなど、もってのほかだった。
ところが、高校3年になった4月早々に、クラスの女の子から「〇〇くんに付き合ってほしいという子がいるんだけど」と声をかけられた。私が通っていた高校には、自宅が遠くて通えない生徒が借りる下宿があり、同じ下宿の子だという。その下宿に入っている子は何人か知っており、一瞬あの子だったら、どうやって断ろうと思った。
その心配は杞憂に終わり、相手は意外な女の子だった。私はそのころ、2年続けて生徒会の役員をしており、声をかけてくれたのは1学年下の2年生の役員だった。付き合えるならあんな子がいいなと思う子がいなかったわけではないが、男女交際などに縁がなかったので、なんとなく付き合いが始まった。普段は生徒会室で顔を合わせていたが、下宿生なので定番の学校帰りのデートもなかった。
そんな時、淡路島唯一の市(当時))である洲本市市民会館に高田渡がコンサートに来島、二人で行った。1960年代後半は、日本でもアメリカの影響で、フォークソングが大流行しており、「自衛隊に入ろう」が若者の間でヒットしていた高田渡が来ることになったのだろう。おそらく「自衛隊に入ろう」は歌ったのだろうが、どんな内容のコンサートだったのか記憶にない。唯一MCで「今日来ているジャケットは京都の古着屋で1000円で買いました」とぼそぼそした感じで喋っていたのだけは覚えている。
高田渡の曲は、シニカルな感じのものも多く、あおられて興奮する類のコンサートではない。はじめてのデートは何となく終わり、夜8時過ぎのバスで帰った。そのバスに中で、腕を後ろに回していた。それを後部座席から見ると、いかにも肩に腕を回して抱きしめているように見えたらしい。翌日には、すぐさまその話が学校中を駆け回った。

大きく動いた高校3年の1年間

女の子と付き合うという初めて経験から始まった私の高校3年は、激動の1年といっても過言ではない。私が通った高校は普通科9クラス、家庭科1クラスの10クラス500人、全学年では生徒数1500人にもなるマンモス校だった。
そして普通科と家庭科の授業内容が大きく違うことから、差別教育だと問題になり、折からの70年安保闘争の雰意気とも相まって、授業はストップ、クラス討論や全校討論で進学クラス、就職クラス、家庭科の問題が話し合われた。最後には、7月初旬の期末テストをボイコットするかどうかが議論され、一部生徒がボイコットに走った。その中心メンバ―だった私は、神経性胃痛になった。
しかし、最終的に期末テストはほとんどの生徒が参加して実施され、夏休みを挟んで学校は、一時期の興奮状態が嘘のように静かになった。そして、10月には生徒会の役員選挙があり、新執行部。2年生の男子が生徒会長になり、4月から付き合っていた彼女が副会長になった。
その新体制下で、11月に事件が起こった。新しく生徒会長になった男の子が自殺、第一報が当時は中高校生の勉強の友だった深夜のラジオ番組で流れたのだ。新生徒会長にすると、あれだけ盛り上がった学校が、潮が引いたように静かになり、何を提案しても誰も動いてくれないことに悩んでいたらしい。そして一人の生徒の自死をもって、私たちの学校の差別問題は幕を閉じることになった。

高校卒業を機に進路が分かれる

その後、私の付け焼刃に受検勉強は功を奏することもなく、1年間の浪人生活を過ごすことになる。私と彼女の関係は、生徒会長の自死直後は、そのショックで自然解消かと思われたが、卒業後は神戸と淡路島と離れたことがあったが、時には時間を合わせてデートをする関係が続いた。
5月には二人で、今はなき宝塚ファミリーランドへ行った。それまでは、二人で遊びに行っても、せいぜい手をつなぐ程度だった。遊園地では暗い中に入っていくようなアトラクションもあるから、そんな時はぐっと抱きしめて、キスをできればいいなと思っていたのだが、あえ何も何も出来なかった。
また、10月には今度は私が淡路島に戻り、洲本の三熊山城に上ったりした。この城は豊臣政権下の淡路島の中心政庁で、蜂須賀藩の時代には、稲田氏が城代として政治を行った。1970年代初頭には、コンクリート造りの復元天守閣がある程度だったが、その後の調査で多様な石垣が発見され、いまは見違えるようになっている。
洲本の街のふもとから山上まで登っても、1時間弱ぐらいしかかからない。山上でしばらく大阪湾を眺めた後、街へ下り老舗の甘味屋で焼きもち入りのぜんざいを食べた。私は19歳だったが、ビールぐらいは飲めたが、甘いものも嫌いではないし、運動の後なので甘味は美味しかった。彼女と二人でいて他にも飲み食いをしたはずだが、何を食べたかほとんど記憶にない。
そして最後に彼女に会ったのは、翌年の正月のこと。私は暮れの大みそか遅くまで、親戚の精肉店で働き、夜中に帰郷。確か正月3日に、高校のある街で待ち合わせ、なんとなく彼女の下宿先の部屋に行った。黄八丈の着物を着た彼女は、かなり大人びて見えた。確か卒業後は、尼崎の薬局で働くと、その後の暮らしについて話して分かれた。
それから数年後のクラス会で、彼女と親しい女性から消息を聞いた。高校卒業後、彼女は1年ほど後に薬局の同僚と結婚、もう二人の子どものお母さんになっていた。

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