街探シリーズ<17>所沢・飛行機新道を行く

10年以上、所沢へは行っていなかったから、その変貌ぶりには驚いた。駅ビルの「グランエミオ」ができ、今年秋には、西武鉄道操車場跡地を再開発した「エミテラス」がオープン、いよいよ所沢駅を核にした新しい街が誕生する。
しかし、所沢といえばかつては所沢駅西口前に、西武百貨店があり、そこから続く商店街(現プロぺ通り)に勢いがあった。また、この商店街が終わるとファルマン通りになるが、そこにダイエーが進出、所沢戦争として大きな話題になった。つまり、かつての所沢は地域主導の街がにぎわいを生み出していたのだが、今は駅ビルにハイエンドの店舗は集まっているが、それがプロペ通りの店舗とは連携出来ておらず、「グランエミオ」は賑わっても、街全体の活性化には程遠い状態に見える。
逆にプロペ通りが終わった正面に旧ダイエーの店舗が、オーケーやヤマダ電機、ニトリなどが入ったテナントビルになったり、業務スーパーが開店、さらに昔ながらの青果店や日用雑貨の店が、生活臭を発散して存在感を醸し出し、トレンディーだが、どこか日常生活からは遠い、グランエミオとは好対照をなしている。

所沢は飛行機の街

しかし、今回ゆっくり所沢を歩いてみて同地が「飛行機の街」であることを再認識するとともに、歴史の一面を見せてくれる街であることが分かった。西武鉄道には、所沢駅の一駅先に航空公園駅があり、飛行機関連は航空公園駅とばかり思っていた。ところが、歴史をひも解くと、1911年に所沢飛行場ができたのは、当時気球隊が駐屯していた東京の中野町(現中野区)からの鉄道の便の良さや地形・気候が気球に適していたことが理由で、所沢は飛行機の街としての必然性があったのだ。
したがって所沢駅から航空公園までは、飛行機に関連する通り名をたどって向かうことができる。まず所沢駅西口へ回ると、全長300メートル100店余が続く商店街があるが、ここは1980年に所沢駅前名店通り商店街から、プロペ通り商店街に名称を変更した。このプロペとは「プロペラ」の略であり、商業の発展の推進力を込めた命名でもあった。
このプロペ通りを抜けたところから始まるのが「ファルマン通り」だ。通りの名称はフランスの1910年型複葉機「アンリ・ファルマン」からきている。1911年の所沢飛行場が開場し、最初の試験飛行このファルマン機で4月5日に実施された.ちなみに同機は全長12m、全幅10,5mで最大速度は65km/hで、スピードは現在の軽自動車以下である。価格は1883万円もしたからかなり高価だ。

わずか400mの滑走路

ファルマン通リから次は「飛行機新道」に入る。実はここも歴史のある道で、所沢飛行場が作られるとき飛行機を運搬する道路として開通した。その入り口ともいえる東川にかかるのが「旭橋」だ。当初は当時の日本の橋と同様木製だったが、飛行場が拡張され所沢が空都と呼ばれるようになるとともに、飛行場の玄関口にふさわしい、モダンなデザインの石橋に架け替えられた。両端の親柱には赤御影石を使用、西洋風の彫刻を施している。
この旭橋を渡れば、あと少しで航空公園だ。野球場を右手に見て少し進むと、ブロンズの胸像が見えてくる。日本陸軍が空戦強化のために、フランスに飛行機操縦や工学の技術者の派遣を要請したのだが、その団長として来日したフォール大佐の像だ。フランスは日本の要請に63人もの大型技術集団を送ってくれた。もちろん、フランスとしては日本がフランス製の飛行機及び部品を購入してくれれば、貿易面でプラスになるという計算もあったはずだ。徳川幕府の末期に軍事顧問団を派遣してくれたのと同じ構図だ。
しかし、それだけではなく、こうしたフランスの好意の背景には彼らの日本好きという感情もあるのではないか。フォール大佐の胸像及びプレートは供出され、しばらく台座しかない状態だったが、1982年に地元の協力を得て所沢が復元、63人の団員の名前が刻まれたプレートも元に戻った。今ではフォール大佐は日本の「航空の父」と呼ばれている。
ここを過ぎて少し行くと芝生の広場が開ける。その一角に幅50m、長さ400mの,最初の滑走路が残されている。これでも20,000m2あるのでかなりの広さだが、3,000m級の滑走路が必要な現在の飛行場とはスケールが違い、いかにもかわいらしい。考えようによっては、ゴルフのミドルホールほどの滑走路から日本の航空事業は始まったわけで、まさに牧歌的な時代だったといえそうだ。


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