マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第27回「ティーカップとショートケーキ」

私が淡路島の実家を出て、一人暮らしを始めたのは高校を卒業した18歳の時。高校時代あまり勉強しなかったせいで、現役の大学受検は全て失敗、予備校に入るため神戸で暮らし始めた。
しかし、裕福な家ではなかったので、母親の親戚が神戸の稲荷市場で精肉店を営んでいたので、そこが倉庫に使っていた棟割り長屋の2階を住めるようにしてもらい、アルバイトをするかわりに、家賃をチャラにしてもらって住むことになった。
だいたい一日の生活は、9時から授業が始まるので自転車で予備校へ通学、昼ご飯は予備校の近くに姉が住んでいたの、そこで食べさせてもらい、3時ごろまで午後の授業を受け、夕方4時頃から閉店の7時までアルバイトに入るというパターンだった。夕ご飯は、これも親戚のおばちゃんが賄いづくりに来てくれていたので、店の職人さんと一緒に食べていた。
まだ週休2日になっていない昭和46年のことなので、月土このパターンで,日曜日は朝からバイトに入る。曜日は忘れてしまったが、週1回休みがあり、そんなときは店の最寄の新開地駅から元町、三宮方面にでかけて本屋を覗いたり、当時話題になっていた大型スーパーのダイエー三宮店をブラブラしたり,名画座で映画を見て過ごすことが多かった。

寝ながらつぶやいた「ありがとうございます」の声

とはいえ、このように暮らしが落ち着いたのは、2,3か月が経ってからで、最初は「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」のあいさつが言えるかどうかが心配で、最初は夜、寝ているときうわごとで、あいさつを練習するほど初々しかった。
そのため、甘えん坊の末っ子を心配した母親が、自分の親戚ということもあり、引っ越しの初日は付き添いで神戸まで来て、お茶ぐらいは入れられるようにように用意してくれた。
しかし、そのように心配されればされるほど、初日から店の手伝いに入り、母親にはそっけなくしていた。今年は19になる、来年は成人だと、精いっぱい気を張っていたようだ。そんな気分を察した母親は、前もって送っていた布団などの引っ越しの荷物を片付けると、足元の稲荷市場で2,3買物を済ませると、そそくさと帰っていった。
賄いの食事を食べ終わって部屋に帰ると、勉強机の上に電気の湯沸かし器とティーカップとティーバッグ、そしてショートケーキが2個、ケーキ屋の箱に入れられて置かれていた。これを見て、新しい生活が始まると気を張っていた、私の気持ちはあっさり崩れた。さすがに号泣するといったことはなかったが、この時のたよりなさといったらなかった。
ティーカップにスプーンはあったが、フォークまでは用意されていなかったので、スプーンで食べたショートケーキは甘さは感じられず、親を思う気持ちが募った。

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