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孤独とは静けさであり、じぶんを最終的に守ってくれる砦

私の心の中には、静けさと音楽が同居している。
音楽が奏でられている時、私の心は、穏やかで、静かに澄んでいる。
音楽の音は、周囲の音を遮断してくれる、ノイズキャセリングでもある。

自分の心の栄養である、音を心に響かせていれば、外界の雑音が入らず、心を研ぎ澄ますことができるのだ。とにかく、嫌な音を心の中に入れない。私は 聴覚が過敏なのか、どんな音も会話も全て拾ってしまう。聞いて得な情報よりも、聞かなくても生きていける情報の方が多いかもしれない。一時期の私は、周囲の音が苦痛で苦痛で仕方がなかった。

そんな状況で、ある時の私は考えた。その頃の自分は本当に 心の一部がぺっしゃんこに潰れたままになっていて、それが膨らみそうになかったのだが、それは、「心を閉ざした」ように周囲からは見えているのだろうな、と。つまり、自ら私は「ひとり」である状況を強化しているのではないか、そして、ますます周囲との間の溝を深めているのではないか、と 不安になった。

信じている人はきちんといるから、ある場所で、周りの人に心を開かない、なんてことぐらいで、私の存在は揺るがないだろうとは思っていた。そして、私の毎日は、その、ある場所で しばしば感じる違和感や絶望を除いては そう悪くない。
そう思い直して、再び、意識的に、自分を、静けさの中に置くようにしていた。

心身が参ってしまいそうな時の人は、案外、なんでもかんでも心の中に取り入れすぎてしまって、処理が不可能な状況に陥ってしまっている。そして、どんどん心が潰れて行ってしまうのだ。

その後の自分は、少しずつ、いろんな音がだいじょうぶになっていった。ペラペラにプレスされた心が元に戻ることはなさそうだが、それを外物から守るマフラーみたいなものが心に育っていったからだと思う。
そろそろだいじょうぶ。ある状況さえ除けば。

実は、プレス機が近くにあるのだった。スイッチを時に触らざるを得ない、プレス機が。
そう、私の心が折れるきっかけとなったものが近くに在る。プレス機の作動する仕組みがわからず、私は何度も 自らの心を、ローラーの中に差し入れてしまったのだった。
その後、四苦八苦した私は、そのプレス機に近づかねばならない時も、仕事の用件だけを、ローラーに入れるという術を覚えた。その術は、いずれ書くとして、そうなるまでに 実に年単位の時間を費やしたのだった。

この間、完全に自分が参ってしまわず、なんとか生きて来れたのは、家族や、信頼する友人のおかげだと思う。あるいは、自分自身の生活ペースを 低空飛行ながらも守ろうとしてきたことによるのだと思う。

最終的に自分を守るのは、自分の空間だ。だから、少し、周りとの交流が減ったとしても、自分を静かな空間に置く時間を確保する必要がある。

ただし、自分の空間、自分の領域が守れそうにない時は、迷わず 人に助けを求めなければいけない。
状況を冷静に見極めるためにも、ひとりで判断してはいけないのだ。

私にとっての音楽のような、心の砦を大切に築いて、自分の領域を作ることで、自分をなんとか保とうとする意識、それは 自分だからこそできること。

孤独とは、寂しいことではなく、自分を生きるということだ。

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