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わたしが だいじにもっていたんだ


娘が産まれて、不安を感じたり、娘が泣き止まなくて途方に暮れた時、なぜか「子どもは神様からのおつかいみたいな存在だから、大事にせねば」と 自分に言い聞かせることがあった。今思えば、はじめての赤ちゃんを常に腕に抱えていた頃、育児うつの領域にいたんじゃ、と思う感じで ふらふらと過ごしていた気がする。

でも、子どもの成長を見る喜びって、世界を見る目を変えてくれる。ランドセルちゃんを見るだけで、ほっこりしたり、がんばれって声援を送りたくなったりする。


ある日、あまりにおもちゃを散らかしていた娘に 耐えかねて、「だいじなぬいぐるみがいなくなったら、かなしいよね。わたしはそういうことがあったよ」と言ったことがある。私の親は、子どもの承諾を得ず、子どもの物を捨てる人だった。大好きなドナルドダックのぬいぐるみを探していて、「捨てたよ」と言われた時の気持ちは、いまだに整理しきれていない。そういうことができてしまう人がいるのだ、ということへの気持ちの整理がつかない。

次の日だっただろうか。娘が言った。
「わたしがもっていたの」と。
「わたしはまだ空の上にいて、ママがぬいぐるみをなくして泣いているのが見えた。ぬいぐるみも見えた。でも、わたしはママにそれを届けてあげられない。だから、わたしがママの代わりにドナルドダックを持っていてあげた。」と。

涙腺崩壊の展開だ(゚o゚;;上の娘がまだ小さかった頃で、そのあと自分がどうしたかは覚えていない。どこかで、たぶん泣いただろうと思う。

どうしたら、そんな言葉が言えるのか。子どもって不思議。この時、我が子は、私もドナルドダックも救ったわけだ。で、ずいぶん前から、わたしのことをお母さんだって知ってたみたいな話なのだ。いい話だなあ。ここまでくると、やっぱり子どもは神様のメッセンジャーだと思いたくなるのだ。

そんな彼女も、もう思春期の女子。自分がそういうことを言ったなんて、きっと覚えていない。私は、間違いなく、子どもたちに生かされているのだろうと思う。
命は こうして 育まれ、守られて、癒されていく。

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