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祈りながら進むしかない〜私たちは循環のなかに在る〜  

 私はどちらかというと、いわゆるスピリチュアル的な考えをすんなり受け入れられるし、いわゆる陰謀論的なものも「たぶんそういうのは伝わっているイメージ通りでないにしても、なんらかの形で在るんだろう」と思っている。

 ここ数年、身近な人たちが、若くして大病で何人もこの世を去ったり、あるいは重いうつ病になったりした。亡くなった人の中には本当に大好きだった、かつての同僚もいた。子どもが大きくなって、そろそろ食事に誘おうって思ってたのに。彼女ともう一緒に遊びに行けないって知って以来、彼女に心の中で語りかけながら過ごすことがあるし、これからも話しかけながら生きていくと思う。他に今も闘病中だという人もいて、その人たちについて祈りを捧げながら、自分の日常を重ねているつもりだ。

 そして残念なことに、魔が差したのか、仕事や家庭を失うような過ちを犯した人の話も少なからず耳にした。

 自分自身、「これ以上頑張れない」と思ったことが何度もあった。なんとか踏みとどまり、回復できたけど。でも、そういう時、「生きたくても生きられない人の分まで」と思うのは何か違う気もした。ただ「生かされているのだ」「神のような、何か私たちを超越したものの意志で私は今ここにこうやって在るのだ」と思う。あるいはこういうこともある。もしかしたら命に関わる病気かもしれないという状況にあると「まだ生きたい」と思う。それが今の私のすべてだろうと思う。

 これからいろんなことが起きるだろうけれど、たぶん私は、また早くにこの世を去った彼女に語りかけるんだろう。で、「まあ、もうちょっと待ちなよ。今日はおいしいもの食べて寝たらいいじゃん」って彼女に言われた気がして、カフェオレを家で飲んだり、スタバやタリーズでテイクアウトするんだと思う。車であったかいカフェオレを飲みながら、運転を楽しんで、藤井風や坂本真綾の歌を聴きながら家路につくんだと思う。

 で、家に着いたら、子どもが話す学校のことや、夫の話す近所のことを聞きながら 食器を洗って、ゴミ捨てをして、床やお風呂の掃除をするんだと思う。で、たくさんため込んだ雑誌とか雑貨を整理して、これらの整理に区切りがつくのはいつだろうって途方に暮れる。挫けそうな時は、吉本ばななの本を手に布団に潜り込む。

 全部 流れの中にある。私の暮らしも、大好きな人たちの暮らしも、苦手で二度と会いたくない人の暮らしも。そして、社会の仕組みも、陰謀論的なものも。流れのどの辺りでいるかは、ちょっとだけ選び取ることができると思う。みんなが言うから私も、っていうふうにしなければ、ちょっと静かなところで過ごすことができる。なんらかの大きな存在や力への畏敬の念を忘れずにいることは大切。ふっと道を外れそうになったとき、踏みとどまりたい。


 そうやって大地を踏みしめていくしかない。大好きな彼女にいつか会う日まで。

 

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