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言葉を「扱う」ということ

私は「頭のいい人」に憧れていた時期がある。頭がいい、というのもいろいろな意味があるが、知識が豊富な人や、記憶力が優れている人に 劣等感を抱いていたというのが正確なところだろう。

私は、一時期 たぶん記憶障害といっても過言ではない状況に陥っていたと思う。その時は あまり分からなかったが、記憶力が回復したらしい今なら 当たり前にできることが、その頃は どう頑張ってもできなかったのだから。もしあのままなら私は社会からリタイアすることを考えなければならなかっただろう。

その要因のひとつは 幼少期からの家庭環境だった。少しずつ心が参っていって、夫と出会った頃は 何とか生きてますが そろそろ限界って感じだった。ボランティア精神に満ちた(・・)?彼は 記憶がもたない私をあちこち連れ出してくれて いっしょに 美味しいものをたくさん食べてくれて 長い時間をかけて ここまで私は来れた。


「頭のいい人」が発する言葉がとんでもない暴力に変わるケースを、ここ数ヶ月でいくつか見た。時には、自分が直接被害者になったかのようなショックを感じた案件もある。


そういうケースでの言葉の使われ方には共通する点があるきがする。
それは、自分さえよければいいという気持ちが根底にあること。
そして、言葉をゲーム的に使っていて、文脈さえ無視しているということだ。ここで言う文脈とは、事柄の背景に何があるかということ。
つまり、状況や人に対する共感が一切ないし、共感する気もないということだ。


自分がぞっとする言葉の使い方、だ。
言葉とは、パーツがそれぞれ独立して、アイコンみたいに存在しているものではない。

自分の心がしくしく痛むのは、こういう、背景を無視した言葉ゲームのような喋り方に出会った時なのだった。


「勉強がとても得意な人」で 時たまこのような言葉ゲームにハマってしまう人がいるのは残念だ。ハマってしまうのではなく、むしろ その怖さを見抜いて、言葉ゲームを減らすような方向に自分の能力を使いたい。かつて自分が尊敬していた人が、まさに そのゲームで生きていることを知ってしまった時の衝撃。ゲーム的にしかその人が生きていないということに すぐに気づけなかった自分は一体なんだったのか、よほど弱っていたのだろう。

本当の頭のよさとは、目の前の光景だけを見るのではなく、背景をしっかり見据えることができる、ということだ。そして、その上で言葉を使える、ということだ。

一見 面白い 人の良さそうな人の発する言葉に 気持ちよさだけ感じるのなら、一度 距離をおく方がいいだろう。この人はいい人だから、というのが 案外一番危険なのだ。


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