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優しさという強さ

何を信じるか、何を信じないか。
そういうことを考えざるを得ない毎日を送っている人は多いのではないか。

私は、この数年間、たまに「この人は嫌がらせをするのが好き。もしくは他人が困っていることが自分のエネルギーになる人だ」と思う人に出会うことがあった。はじめからそういう人だとわかっていれば距離を置く。

 困ったのは、そうではないような感じなのに、ふいにそういう側面を見せられた場合、戸惑った。どっちを信じたらいいんだろう、と。人を助けるときもあれば、突然突き放したり、他人が辛くなるようなことを平気で言ったり。

 ある時、こんな言葉に出会った。「あなたが元気になれるような言葉をかけてくれる人だとしても、時にあなたを打ちのめすようなことを言う人とは、距離を置くこと。いいことを言ってくれても、相手を打ちのめす言葉に耐え続けていると、あなたの心は確実に疲弊していく。あなたを守ることを最優先すべきだ」と。

 不思議なことに、そういう人たち、つまり他者を突然打ちのめす人たちは、ある時、突然自己の過去を告白し始めるのだった。不幸な家庭環境、親との複雑な関係。しかも、大勢の前で、公の場で堂々と発表するのだった。そして、同時にそれまでの自己のネガティブな言動をちょっとだけ謝って、なかったことにしてしまおうとするのだった。決して、一人ひとりには謝らない。「私の言動が時に誰かを傷つけたこともあるかもしれない。申し訳ない。でも、私もつらかった」と。それで終わり。そして、周りの人に「そんな辛い思いをしていたんだね」という言葉をもらう。満足そうにうなずく本人。強い気持ちで生きてきたんだ、と言わんばかりの。

 同情している周りの人たちは、その人の辛さを肩代わりさせられているということに気づいていないのではないかと思う。
 もちろん誰かの辛さ、というものは、その人だけが抱えるものではないと思う。支える人、思いを分かち合う人と出会えるからこそ、生きていける。私自身も何度周りの人に助けてもらっただろう。

 でも、その辛さや寂しさを抱えた人たちが、他の困っている人を嘲笑したり、見下したりすること自体は、別のこととして考えなければならないと思うのだ。

 こんなことをここで言ったからといって、私がその人たちに 直接これを伝えることはないだろうと思う。というのも、これ以上その人たちと関わるエネルギーは残されていないからだ。たまたま長い人生の中で、少しの時間をともにしただけの人たち。一緒にこれから人生をともにするわけではない。その人たちにはその人たちの人生がある。

 ただ、これまでに出会った本当にすごい人は、自分の辛さを、人をいじめることで晴らしたりしないのだ。大変な経験を、他者へのやさしさや、自己の仕事へのエネルギーに変える。決して困っている人をあざ笑ったりはしない。

 きれいごとを言うな、と時折言われることがあるが、この世の中で起きる悲しみの連鎖は、「自分がした悲しい経験を、他の人がしていないのは不平等だ」と言わんばかりに、嫌がらせをして、自分の悲しみを消化しようとするから断ち切れないのではないかと思う。

 こういうことをされたときに、ぐっと耐えて心が折れるのは耐えられないが、それでも、仕返しをしない優しさ、という強さをもつ人こそが、この世界を冷え切ったものにしない、あたたかさを人に贈っているのだろうと思う。
 
 他者の無慈悲な振る舞いに一人で耐えようとしてはならない。誰かに助けを求めよう。でも、決してその悲しみ自体を他の人にも押し付けようとはしたくない。

 この数年間で知ったことは、他者の苦しみを嘲笑できる人がいるということで生まれる悲しみ。

 私は、そういう人たちと決別するための数年間を送った。そしてこれから世の中を作る人たちが、そういう人たちの身勝手な言動に負けてしまわないだけの力をつけていけるように援助する仕事を続けていきたいと決意を新たにしている。
  
 優しい人たちが、他者の利己的な言動に負けてしまわないだけの力をつけていけるよう、学んでいく必要がある。そういう世の中だと思う。

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