見出し画像

手放すことで「持っていた」と気づく

 社会人歴25年目。資料などの紙もので、手付かずだったものを、2日かけて整理した。まだまだ手放せそう。パソコン兼資料部屋がずいぶんスッキリして、居心地のいい空間になった。今日も続きをしようと思っている。

 以前は、休日になると外出、というのが決まりのパターンだった。家が落ち着く空間とはいえなかったのかもしれないし、地道なルーティンに耐えられないというのもあったと思う。買い物をすることでストレス発散をしていたところもある。

 自分は、無駄なプライドに囚われていて、劣等感も強い方で、数年前まで何をしててもネガティブな面ばかりに目を向けて、なかなか達成感を感じることがなかったけど、最近はそうでもなくなってきた。

 そして、この二日間いろいろ手放していて思った。「なんでこんなものをため込んでいたんだろう」「こんなに頑張っていたのか」の両方を。

達成感を覚えない代わりに、紙屑みたいなものをたくさんため込んでいた

 整理整頓をしてみて、ある数年間の自分を表現するとしたら、こんな感じになってしまった。自分の本当の頑張りが見えない自分は、紙屑をためるしかなかったんだと思う。こう書きながら、昨日捨てずに分類したものも、たぶんその半分以上は捨てられると思っている。じゃあ捨てればいいのに。

自分の記憶力を、否、自分をまだ信じることができない

 昨日捨てずに残したもの、たぶんこれからもそのほとんどは使わないと思う。だから、これを書きながら思った。今日、目を通してその3分の2は処分しよう、と。実際、「ここにあるのがわかっていたら活用したのに」と埋もれていたことを悔やむものもあったのだ。それは捨てない。

それ以外は、「捨ててしまうことで、そこに書いてあることをもう二度と見返すことができない」という恐れで、捨てるのを躊躇したものだった。捨ててしまえば、その記憶を完全に葬り去るような気がした。書いた内容なんて絶対に私の乏しい記憶力で持って覚えておくことなんてできるはずがない。でも、見つかるまであったことすら忘れてたんだから、捨てても捨てなくても一緒なのだった。それなら空間の心地よさを優先させよう。最近は情報技術の発達のおかげでちょっとしたものなら、すぐに再入手できるのだし。

気づいていなかったけれど、私はいろいろ持っていたのだった

手放す作業をすることで、これまでの自分の歩みを振り返ることができた。手放さずに、整理すらせずに放置していたら、その紙屑を溜めた過程すら、すなわち、「自分なりに生きていた」時間すら目を向けることはなかっただろう。もう会うこともない、かつての同僚が分けてくれた、貴重な資料もそこにはあった(もちろん、こういうものは捨てない。むしろなぜ活用しなかったのか悔やまれるものだった)。その同僚との温かい時間も思い出した。

手放すことは消去することではない、気づきをもたらしてくれるものだった

手放す作業自体が、まるでセラピーのようなものだった。自分のコンディションを保つのが難しい時期もなんとか踏ん張って仕事をしていたことに気付かされたり、その頃得たものが何もかも私の心から消え去っていたわけでもないと知ることができた。手放すことは私にとって、癒しでもあったのだ。

今日も明日も、急がずに、少しずつ手放していこうと思う。手放すことが、「持っていたこと、もの」に気づかせてくれる優しさをともなうものであるように、一歩ずつ進もう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?