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ただ許されたかっただけだった

今日、書くのは、ある人のことだが、それは同時に私が同じような思いを持っているなということを先に書いておく。その人を「かわいそうだ」とか「残念だ」とか思っているのではない、自分もそうだ、ということ。

「誰かのしたことを許せないな」という思いを抱えて、このnoteで いろいろ書き始めた。
 以前 まだ一人暮らしだったとき、気持ちがもやもやすると 車を海に走らせていた。海をぼーっと眺めて近くのカフェでおいしいコーヒーを飲むとほっとした。広い海を見ていると、自分が風景そのものに溶け込んで、何かに包み込まれるというか、大げさにいうと完全に許されているような、そんな気持ちになっていたような気がする。暖かい飲み物とおいしいケーキに力をもらって、また次の日から頑張ることができていたのだ。

 自分が許されている存在なんだとわかっていたら、他者を許すことができる、というような言葉をある方の記事で見つけて、「許せないな」という気持ちを抱えていたこと自体が恥ずかしいなと思った。

 10年以上前に関わりがあった、ある人のことを思い出した。その人は「自分がこんなことをしているんだ」と何かと評価を得ようとする。あるいは、「自分のことを家族は理解してくれている」と何かと強調する。そして、自分が気に入っている人のことは異常なくらい、溺愛というレベルで大事にする。後で分かったのだが、「あなたは素晴らしい」とか「女神のような存在だ」とかいうレベルで崇め奉っていたらしい。(女神かよって思う…そんな言葉を使ってまで他人のことをむやみに称賛する人は怪しい。いつ態度を豹変させるかわからない、そういう可能性を疑った方がいい。)その一方で、やはりといおうか、気に入らない人のことは徹底的に無視をしたり、相手を否定する言葉を丁寧に送り続ける。しかも、他の人に気づかれないように。だから、他の人がなんだか変だな、とその二人のことに気づいたときには相手が精神的に参ってしまっていて、時には本格的に体調を崩す人もいた。だからなのか、周囲の人たちは、その人のことを適度に称賛しつつ、距離を保っていたようだった。能力はあるはずなのに、自分で自分を孤独な状況に追い込んでいる人だった。

 ある方の記事を読んでいて いろいろ思いをめぐらしながら洗濯物を干していて 急に思った。そうか、その人は、ただ許されたかっただけなのだと。そう思えば、いろいろな言動について説明がつくのだった。自分が気に入った人に親切にすることで、感謝されたい、自分がいい人だと思われたい(実際、そう言われるときは満足そうな表情だった)。女神のような存在を見つけることで、「すごい」と言われたり、頼りにされたり、あるいはその人を助けることで、「すごい自分」を実感したい。「家族が理解してくれている」ということで、「自分は許されている」と言い聞かせる。他者を追い詰めるのは、説明がつかんようだけど、本人には決して謝らずに他の人に「私はこんなひどいことをした」と涙ながらに語って「ひどいことをしたってわかってるなら大丈夫(何が大丈夫なのかは不明)」と言われて ほっとしていたという場面を目撃したので、これまた「許される」という状況を作り出しているのだと思った。

 なんだかよくわからんけれど、その人は「許されている」という感覚を味わったことがなかったということなのかもしれない。だから、他人を許すことができなくて、自分を許してくれる人を探して、そして、また自分の力を認めてほめてくれる人を探していたのかもしれない。

 そう思ったら、これまで 自分自身が「あの人のしたこと許せんなあ」と思っていたことについても見方が変わってきた。ここで書く必要はないので書かないが、その人の言動にもまた「許されたい」と心の根っこの方で感じているところが感じられたからだ。だからといって 私が「許す」のは、それまた違う(私自身が誰かを許すほど偉くない)。
 ただ、あの人はそういう人なんだな、と思うだけで、今までとらえていた、その人と私の人間関係が変わってくるのだ。その人が私にひどいことをしている、私がそれに負けるというような構図がガラガラと崩れるのだ。その人の言動すべてが、実は私に向けられているものというより、その人の問題だということになって、とたんに、私とその人の関係がなくなるからである。

 ただただ許されたくて 日々なんとかがんばっている、、、そういう風に人の生き方を見ることで、人間という生き物がこれまでと違った存在として映るようになる。


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