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開くことと閉じることのバランス、の難しさ

自分から心を開くことで 相手も心を開いてくれる。ただ、あまりにオープンにすると 怯まれてしまったり。

社会のなかで生きていく時、わたしたちは 場所や状況、そして相手によって 開き具合を調整しながら 人間関係を築いている。
その難しさを初めて「外の」世界で感じ始めたのは、小学校から中学校に上がろうかという時期だっただろうか。
私は早い時期から親の言動に振り回されて、「内の」世界の面倒臭さを味わっていたけれど、他人の表情やちょっとした口調に心が揺れる感覚は「外の」世界ならではのものだという気がする。その後経験を積む中で、相手との距離のとり方などを会得していったが、親との関係が複雑だった事が影響してか、距離の取り方がわからなくなり、人間関係がしんどくなることもたまにあった。

社会人になってから何度か、そのしんどさが極限に達する事があったが、一番ひどかったのは、後から思えば「まるでサイコパスのような」人に自分の領域に入り込まれた時だった。優しさと冷酷さをころころと入れ替える、相手によって巧みに態度を変える、自分がいないと困ると他者に思い込ませる、そうやって相手を「依存させる」のが上手な相手だった。そういうことをしている本人は、自分が安定していることを これまた巧みに演出しているので周囲は 常に称賛の言葉でその人を称するが、実のところ 不安定なところを内面に隠し持っていて、その称賛の言葉をサプリメントに 心を保つような人だったと思う。

私がもう少し自分の内面を信じる事ができていれば、その言動に振り回されることはなかっただろう。まるで「自分軸」を相手に明け渡すような状況に一時期陥ってしまった。「開きすぎた」のだ。どちらかというと、私は、自分から開くことで人間関係を築く方だと思うが、この時は あまりに自分のことを開きすぎて、大きな痛手を負うことになった。何があったかは今は書かないが。

信じたはずの相手に巧みに取り込まれていたことに気づいたときの衝撃。友人には、自分がその相手を一時的にでも信じたこと、その事自体は否定しなくていいのではないか、と言われたが、それにしても 私はコントロールされ過ぎた。うっかり相手に心を許した自分を責めて、追い詰めてしまった。今振り返っても たぶんあの状況は回避できなかったと思うけれど。強いて言うなら、上にも書いたが、自分にもっと自信があれば ここまで相手に振り回される事はなかっただろう。

開くことと閉じることのバランス。
この感覚をどれだけ育めるかには、本人がもともと持っている特性に加えて、やはり家庭環境や、学校での経験、大人との関わりが影響しているように思う。この辺のことは、またの機会に書こうと思う。

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