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ただ笑い合いたい


昨日気づいたこと。「ただ、笑い合えるということを望んでいるのか、私はもちろん、あの人も、その人も」

仕事でもプライベートでも、10代の人たちの声を聞く機会があるが、「ただ、私の話を聞いてくれるだけでいいのに。大人は、親は、すぐに評価をするんだ」と悲しそうな顔で言う人によく出会う。「悩みを相談しても、『こうすればいいのに、こうすべき』など、評価や否定が返ってくると、ショックだ」と。

子にとって、親とは自分の世界そのものだった。成長して自立しても、親が子にしたことは子の世界のありようを左右する。親が子を評価するということ、それは、評価の内容自体で子を否定する可能性と同時に、子自身が自分を親のような評価の仕方でしか見られない生き方を選ぶ可能性も秘めているということ。たとえば、世間体、たとえば数値、たとえば社会的ステイタス。そこで、その人自身の思いは無視されているということ。

人は強いけど、弱い。弱いけど、強い。子にエネルギーがあれば、親が何と言っても、自分の道を歩んでいける。ただ、親が心底子を信頼している、他者として尊重している家庭で育った人は、安定しているという割合が高いような気がする。「私にはできる」って思って、多少のことでは挫けないで進んでいける。そして、笑顔が本当に明るいのだ。ちゃんと笑ってる。

子は親のものではないから、それぞれ別の人間だから、生き方を互いに束縛はできないし、何もかも分かり合えるなんて幻想でしかない。でも、ここが帰る場所だって思えて、「今日こんなことがあって」って気兼ねなく話せて、評価なんてせずに、ただ笑い合える関係というのがあれば、それでもう本当にありがとうって思えるし、十分なんだろうって思う。

そして、それこそが難しいのが人の世というものかもしれない。だって、ありのままの自分を認めてくれる関係を子どもの時に経験して、大人になっても自分や他人にありのままを認めてやれる生き方ができるなら、ヒーリングやカウンセリングを必要とする人が少なくなるはずだ。こんなにもカウンセリング的なものが必要とされる世の中。数字や他者の価値観で生きている人がいかに多いかということ。

生きるってそんな甘いことじゃない、かもしれないけど、自分で自分を否定してたら、親が子を否定し続けていたら、ますます苦しみしか生まれなくなる。

ただ、笑い合う 
笑い合いながら 何かを一緒にする
オンラインじゃなくて、今 ここにいる人と

そこから何かが動き出すかもしれない

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