知ること、気づくことの、真の面白さを奪う罪
今日のこの文章は、読んだ人が単なる愚痴にしか思えないかもしれないが、自分が次に進むために書きたい、と思って書いた。
何でもすぐに質問して、自分で調べることができない人(Aさん)がいる。調べ方を教えても、やはり、調べることができない。
悪いことに、Aさんのそばには、すぐに答えらしきことを懇切丁寧に教えてやってしまう人がいる。だから、Aさんは傍にいる人に頼りっきり。
さらに悪いことに、その傍にいる人が教えてやっているのは、その人が言いたい事だけであって、Aさんが本当に必要としていることではない。不幸なことに、質問しているAさんは、自分が何をわかっていないかを本当にはわかっていないので、傍にいる人が長時間散々語ったことが本当に知りたかったことと違うという、大変不幸なことに気づけず、言われたことをただ鵜呑みにして、仕事で使うために、どんどん目的からズレていく。ズレたことをしてしまう。当然、成果をあげられないのだ
周囲が「まずは、傍にいる人に頼らず、こうこうこうして調べて考えなさい」とAさんに伝えても「でも、傍の人が助けてくれるから」「何で助けてくれる人に頼っちゃだめなの」と、頼ることをやめない。
こんな笑うしかない、悪い事態が起きるとは、そして、他者がそれを止めることができないとは、なんという不幸なことだろう。
この場合、原因を作っているのは誰だという話になる。質問病ちゃんか、教えたいさんか、止められないさんたちか。
止められないさんとしては、この事態の原因として責められるのは不本意だろう。だって、言葉を尽くして伝えた。調べ方、調べる手段がどこにあるか、などなど。調べるプロセスだって、伝えるだけではなく、一緒にやってみた。その人の指導担当じゃないから、出過ぎたことをしているかも、と躊躇したけど。
ちなみに、何でも教えちゃう、自分の言いたいことを伝えて満足しちゃってるのが、なんと指導担当者だ。
これは、ある仕事のプロとしてやっていくべき新人の社会人をめぐる出来事だ。
知りたいと思った時、すぐに質問をする人は、本当に力をつけることができないのではないかと思っている。調べて、悩んで苦しんで、の過程は、目的に辿り着くまでの長い時間だけ見れば、一見無駄に思えるかもしれない。が、これなくして、真の学びはない。結果だけを学ぶのは、学びではない。そこに至るプロセスをきっちり体験した時に「真似び」、「学び」は成立するのだ。結果だけを伝えるのは、真の指導ではない。相手をスポイルしているだけだ。
結果を聞きたいさん、自分の言いたいことを語りたいだけさん、二人だけでやってくれ、と言いたい気持ちが日に日に強まってくる。他者を巻き込まないでほしい、と。
わからないことを調べ、考え、ついに「これだ。こういうことだ」と到達したときの喜びは何にも代え難い。これが人生の財産になる。これを奪う、伝えたいさんの罪は大きい。
あるいは、伝えたいさん自身が、この喜びを知らないから、悩むプロセスを奪っているのだろうか。「頭が良くて」すぐに答えにたどりついちゃうから、「分からなくて」困ったことがない?えええ、そんなことってあり得るの?だとしたら、伝えたいさんは知る喜びを本当には知らないのかもしれない。しかし、一人の人間があっさりとわかった気になれるほど、この世の中は浅いものではないと思うのだけど。
この、
「教えてーーー」
「はいはい(言いたい事だけ)語るーーー」
の やり取りを頻繁に聞かされる切なさを どうしたらいいのだろう。。。
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