それって、このタイミングで言うことなの?
去る2月15日に、日本教育大学協会のシンポジウムがオンラインで開催された。このシンポジウムは、今後の教員養成とそれを担う教員養成系大学・大学院の役割について考えるというものだった。
このシンポジウムにおける講演のなかで、元文部科学副大臣の鈴木寛氏(現、東京大学・慶應義塾大学教授)は、高度な専門性を持つ教員の養成・育成のために「教員の原則修士化」を検討することが必要だと指摘をした。もともとこの「教員の原則修士化」については、2009年に鈴木氏が文部科学副大臣を務めていた当時、すでに中教審に諮問をしていたという経緯がある。
この鈴木氏の指摘に対して、同シンポジウムに出席していた文部科学省の後藤教至・総合教育政策局教育人材政策課長は、「教員の修士化は、本気で今必要なことだと考えている」「教員の免許制度にまつわる今の教職課程の仕組みを固定したものだとは考えていない。必要であれば法律の改正も考えていい時期に来ていると思う」と答えた。
・・・3月15日付の「教育新聞」には、この後藤課長へのインタビューを基にした記事が掲載されている。
このインタビューの内容には、なかなかに「ツッコミどころ」が多い。
仰っていることはよくわかる。だが、「働き方改革や処遇改善、学校の運営・指導体制の整備」などに十分な成果が感じられない状況で、「教員の原則修士化」といわれても、それが学校現場の実態と乖離しているという印象は否めない。
教員の欠員が常態化し、教員免許を所持していない者にも臨時免許や特別免許を付与して採用をしている自治体があるなかで、将来的なこととはいえ、「教員の原則修士化」という話には、あまりにも現実感が乏しいのだ。
中長期的な施策を検討することの必要性は理解できるが、文部科学省として、まずは「働き方改革や処遇改善、学校の運営・指導体制の整備」で結果を出してから語るべき内容ではないのかと思う。
たしかに、こうした「教育の質」の向上や「これまでのスタイルからの転換」を図るために、教員養成や現職教員の学びのあり方を転換していく必要はあるだろう。
だが、それがなぜ「教員の原則修士化」と直結するのだろうか。
・学部段階における「教職課程」の見直し
・現職教員に対する研修や校内OJTの充実
では何がどう不十分なのか、納得できるような説明がほしい。
そうすると、大学院に行かない教員の「学び」の充実のために、
・学部段階における「教職課程」の見直し
・現職教員に対する研修や校内OJTの充実
などが必要になるのだろう。話は堂々巡りである。
そもそも、「教員の原則修士化」と言っておきながら、「教師全員が大学院に行かなければならないということではありません」とは、いったいどういう意味なのだろうか。
「昔だったら合格しなかった人」が「指導力に課題がある人」を意味するのだとすれば、具体的にどんな手立てがあるのか。少なくとも、その人たちにとって必要なのは大学院で学ぶことではないだろう。
無論、特別支援教育や外国人児童生徒への対応、不登校の問題などについて、教員が学ぶことは必要である。しかし、これらの問題は専任教員や専門スタッフの増員、校内組織の見直し、内外の関係機関との連携などによって解決を図っていくべきものだろう。
教員が「大学院レベルの学び」をすることで、十分な改善が図れるとは思えない。また、こうした「何でも教員が」という考え方はその多忙化に拍車をかけることにつながり、文部科学省が目指す「働き方改革」に逆行することにもなるだろう。
大学院まで学んでから教師になる人が減っている背景として、「採用倍率の低下があるのは間違いない」と言っている。それも一因だろうが、とてもそれだけだとは思えない。現状の分析をしっかりと行ってもらいたいものだ。
結局、充足率が低い教職大学院の定員を埋めるために、「教員の原則修士化」を推しているのだろうと読み取れてしまうのだが・・・。
私も「それは非常に大事だと思います」。
・・・今後、教員にとって高度な学びが必要になることは間違いない。また、短期的な問題だけではなく、中長期的なことを視野に入れて施策を考えていくことも大切だと思う。
だが、学校現場が「多忙」や「教員不足」に苦しんでいるなかで「教員の原則修士化」を叫んでも説得力は乏しい。
まるで「生活が苦しくて家賃が払えない人に別荘を売りつけている」かのように聞こえてしまうのだ。
将来的な理想について語るにしても、その発信の内容、そしてタイミングには十分に注意を払ってほしいものだ。
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