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妹―― 葬儀を終えて


                               

 香芳の三つ違いの妹、和香子が膵臓癌で四十五歳で亡くなって、もう、六年が経つ。香芳は、東京の出版社で結婚もせず働いていたが、会社が倒産して田舎に帰り、今後の身の振り方を考えていた矢先、妹が亡くなった。
 母、珠緒は七十六歳という齢だし、実家が寺だったので香芳は妹の家族に頼まれて家業の手伝い兼家事を手伝うために実家に戻ることになった。

 妹の家族は、長男典史は京都の大学を出て金沢の教務所で働いていたが和香子の三回忌の後、結婚した。寺を継ぐために、現在、二世帯住宅に建て替えた実家の二階に住んでいる。次女鞠華は看護師になり、家を出ている。義弟の融は現在五十六歳だが、住職として寺を護っている。
 妹が亡くなってはや、六年も経ったのかと思う。

 生前、手術前の和香子の病床を香芳が見舞ったとき、やつれていたが、くりくりした目に人懐っこさが宿って、以前の和香子の表情と変わらなかった。
「来てくれてありがとう。会いたかった」を繰り返して、再会を喜んでいた。こうして面と向かってゆっくり会うのは久しぶりだったから、長い時間の空白を飛び越えるように、互いの無事を喜んだ。輝かしい子ども時代を共有して昔を懐かしんで言葉を交わす者同士のように、妹の表情も明るく生き生きしていた。
 そしてしばらく話すと心の箍(たが)がはずれたように「死にたくない、まだ子どもらのことが心配や」と言って泣きだした。

「大丈夫、あんたが死ぬ前に私が死ぬよ。仲良しの優しい家族に囲まれて幸せなあんたが、そんな早く死ぬはずはないよ」
 と励ますつもりで香芳も答えたのだったが、もっと和香子の気持ちに寄り添ってなにか言ってやればよかった、と振り返って思う。
「――子どもらのことが心配なんや。典史は、小さい頃から寺の長男やいうて皆に大事にされてきたから、世間知らずで子どもなが。鞠華は、まだ高校生やし、進路があるし。あの子は、気は強いけど、とても寂しがりやなんや。融さんのことも心配やし、お母さんもだんだん体が動かなくなってきとる。寺のこともあるし、お姉ちゃん、お願い。みんなの面倒をみて。この家に帰ってきて、みんなのことをみてやって」
「わかった、わかった、なにかのときにはね。そんなことは地球が破滅してもなにもない話やけど」
「帰ってきて、子どもらの相談相手になって。お姉ちゃんになら任せられる。私も安心できる」
 和香子は癌のことは知ってはいたが、手術をすれば治ると聞いていたはずなのに、厄介な膵臓癌だから覚悟を決めていたのかもしれない。

「大丈夫、私が面倒をみるから」胸をたたいてそういってやれば和香子は少しは気が楽になったかもしれないけれど、まるで和香子の体がもたないみたいでそんなことを言うわけにもいかない。ゆっくり会っていない期間が長かったから、やっとこれから仲良く行き来できるはずだった。
 義弟から手術は成功したと聞いていたから大丈夫だと思っていた。その八か月ほどして再発した。たぶん、そういうことは予測されていたのかもしれない。「もしものことがあったら、お姉ちゃんが後の面倒をみて」と和香子が頼んだときの和香子の心中を考えると不憫でならなかった。たった一人の妹だったのに、こんなに早く逝くとは思わなかった。

 葬式の日は和香子の友人たちも大勢、駆けつけて来た。「かわいい顔しておいでる」「なんて優しい、きれいな顔しておいでる」若く亡くなった和香子を惜しんでくれる。
 長い患いもなく亡くなってしまったので香芳も妹の死が本当のことのように思えず、夢を見ているような気がしてならなかった。半分、宙に浮いた気持ちで火葬場に向かった。
 空は雲もなく、水色に透き通っていて、白い山桜が一本、山間に咲いていた。こんな美しい穏やかな春の日なのに、妹が逝ってしまったことが悲しくてならなかった。

 次の日、香芳はあいにく以前から羽咋近くの歯科口腔外科へ予約がしてあったので、行きたくはなかったがやっとの思いでそこへ向かった。
 帰り、南羽咋の無人駅で列車を待った。誰もいない無人駅で知り合いもいない。目の前には果てしない空と、生い茂るままの自然の草木の景色だけが広がっていた。
 ああ、この空の、風景の続くどこまで行ってももう、妹は本当にどこにもいないのだな。世界の果てまで行ってももう、再び、妹に出会うことはないのだ、と思った。結婚もせず、家族のいない自分にとって、この世の中で一番信頼できるたった一人のかけがえのない人だったのに、と繰り返し思った。

 和香子が大事にしていた自宅の花壇はちょうど春の花が咲き始めていた。     水仙、チューリップ、小手毬、スノードロップ、クリスマスローズ、ヒヤシンス、パンジー、競うように咲き始めた。しばらく毎日姪が水やりをしていた。それから義弟が、毎日水をやり、妹が残したスケジュール表通り、手入れをするようになった。
 その後、香芳は義弟に頼まれて実家に戻って、家のことや寺のことを手伝うことになった。
 たぶん、そのことは和香子が亡くなる前に義弟に頼んでいたのだろう。和香子も五十近くになって今更、故郷に戻り、実家に住もうとは思いもしなかったのだが。

 四十九日が近くなった頃、和香子が続けていたボランティアの「すずらん」の友だちが三人、訪ねてきた。和香子が描いたという民話の紙芝居を出して、「これは和香子さんが描いたものなんです」と言う。
「和香子さんのお骨の前で紙芝居、してみていいでしょうか」
 三人はそれぞれ、分担して声を出したり、紙芝居をめくって進めたりしながら語ってみせた。
 話は、地元に伝わる民話で、土地に植えられた柳の木を邪魔になって切ろう、としたときに柳の精が夢に出てくる話だった。女の姿をした柳の精は涙を流して「私を切らないでください」と訴えたのだった。
 紙芝居のボランティアは和香子に合っている。香芳と母の珠緒は待ち焦がれたような思いで引き込まれて紙芝居を見た。
 
 よく見ると和香子が描いたという柳の精の顔がなんとなく和香子の顔に似ている。髪も同じ、後ろに束ねているし、和香子も着物を時々着ていた。香芳は涙が止まらなくて声をあげて泣いた。

 和香子は寺に育ち実の両親に大事にされて育ったせいか、処世術を知らないというか、自分の嫌いな人にちょっとした嫌がらせをしたり、相手や状況によってころっと態度を変えたり、ずるい言葉で他人に責任転換するような、大抵の人に少しはあるような嫌な部分が全くない人だった。まるで小学生の子どもがそのまま大人になったように素直で純真だった。和香子と話をしていると心が和み、安らいだ。
 だから、そんな和香子の人柄を慕って偲んでくれる人がいた。この世知辛い世の中で珍しいような人だったから、こんなに早く亡くなってしまった気がして、若すぎた死が惜しまれてならなかった。

 和香子は絵を描くのが好きだったので亡くなった後、デッサンを描いたキャンパスが何枚も出てきた。和香子の描いた緻密なデッサンは、妹が描いたと思うせいか、物の質感と対象への思いが伝わってきて一枚の紙に描いた絵なのに生命が感じられる。
 和香子はデッサンは対象をよく観察して、正しく見ることが大切なのだと言っていた。それから、着物の図案を描くときなどでも、自然の中で咲いているそのときの花の表情をデッサンしないと美しい図案にはならないのだ、その日、そのときの生きた花の表情を写し取ることが大切なのだ、と言っていた。
「しもた、まあ、いいわ、いいわ」なにかしくじったとき、鼻の辺りにしわを寄せて首をすくめてそんな風に言うのが癖だった。忘れていたそんな日常の一つ一つが妹の物を整理していると思い出された。

 香芳の大学受験のときには、緊張している香芳の気持ちを察してか、一緒に東京まで和香子が付き添ってくれた。だが、おっちょこちょいの性格なので同じ宿に泊まった受験生の忘れていっためがねを直接渡しそびれて、試験会場まで持って行ってしまうということもあった。

 香芳と和香子は父親が違う姉妹である。本当の父は香芳が一歳のときに交通事故で亡くなって、今の継父、君久はその一年後にやって来た。
 そのことは小さい頃からいつの間にか知っていたから、和香子と香芳を見る視線にもそういう意識はどこかに感じ、君久の和香子への態度を自分へのそれとつい、比較している自分がいた。
 小学生の頃だったか、君久の友人が炬燵に入っている和香子と香芳を見比べて、「和香子ちゃんの方が美人だな」と言ったことがあった。君久は側で何も言わないで笑っていたので、そういう些細なことにも傷ついたりした。

 それから香芳には夢か現実かはわからない、和香子との思い出したくない幼い日の出来事があった。
 どういうわけか家の中路地にいた香芳と和香子は何を争ったのかわからないが、香芳は和香子の言動に怒って和香子の体を強く押したのだった。すると和香子はすぐそこにあった大きな灯篭の石に体を押し付けられて、背中一面に擦り傷をつけてしまった。石が倒れるとか、よくそれ以上の大事にならずに済んだものだと思う。妹の背中に大きくできた朱い擦り傷の痕が生々しく不吉なもののように記憶のどこかに残っている。

 しかし、妹は幼くて物事の判断がよくできなかったせいなのか、姉の香芳が自分にしたことだ、とは言わず、告げ口をしなかった。それが本当にあったことなのかどうかも今でははっきりしないが、妹が亡くなったときにそのことを思い出した。あのことがまるで妹と自分の関係を暗示しているようにも思えて言いようのない罪の意識が蘇ってきたのだ。

 和香子が小学一年生のとき、家の庭で近所の子どもたちと遊んでいて、近くの神社の側に咲いている白詰草を摘みに行こうということになった。和香子には家に居るように言ったのに、香芳の行くところにどこにでも行きたがり、一緒に付いてきた。子供たちは白詰草摘みに飽きると今度は近隣の丘へ化石を取りに行こうということになった。
 すると和香子が「帰りたい」と言い出したが、香芳は「自分で帰りなさい」と言い捨てて、家まで送ってはやらなかった。

 たぶん先に家に帰っているのだろう、と簡単に考えていたら、帰ってみると家にも戻っていなかった。雨は降って来るし、君久は外に探しに行き、家族で心配していたら、後で近所の叔父さんに連れられて戻ってきた。迷子になって、泣きながらよその家の軒下で雨宿りをしていたという。

 そのとき香芳は母にこっぴどく叱られたが、継父の君久は香芳をあまり叱らず、でも言うに言われぬ思いでいた様子がありありとわかり、何とも言えない残念そうな目つきで香芳を見ていた眼差しが香芳の胸を刺した。
 継父のそんな目を見るとなにか不安で辛い気持ちになったから、そういうことがあったせいか、自分は母と継父にほめられるようないい子でいなければいけないと思うようになった。
 和香子と香芳を比べてみたら、和香子がかわいいと思うのが継父の本当の気持ちだろう。本当の親子なんだから。それは変わらなくてどうすることもできないのだ。だから私は寂しいこともがまんできて継父と母に愛される子でいよう、子ども心にそんなことが継父と母親とそして和香子と自分が仲良く生きていくのに必要なのだ、という気がしたのかもしれない。

 四十九日も終わった頃、母方の叔母から珠緒や家族の様子を尋ねて電話がかかってきた。
 香芳が電話を取ると叔母は電話の向こうで驚いたように
「あら、思わず和香子ちゃんかと思ったわ。あんたの声は和香子ちゃんによう似てるねえ。電話で聞くとそっくりや」
 肉親は声がよく似るということを聞いたことがある。和香子の声も母に似ているから、三人は電話で稀(まれ)に間違えられることがあった。

 そういう電話があったので、以前、その叔母が言っていた話を思いだした。それは和香子が結婚して十年ほど経った頃だった。
「和香子ちゃんは、まだ若いし、自分の仕事もしたかったし、本当はまだ結婚はしたくなかったがや。寺の家に育った運命や思て、わずか二十歳やそこらで結婚したけど、ほんとは長女の香芳ちゃんが家を継いでもよかったがや。そやけど、あんたは昔から外へ出る、いうとったさけ。東京の出版社で働きたいいうて東京で頑張っとったから、和香子ちゃんが家を継いだがや。門徒や周囲の人からも随分急かされてね。寺は、男の住職がおらんとやっていけんから。和香子ちゃん、結婚のときは、まだ結婚したない、いうて私に泣いて言うとったわ」

 その後で「あんたの家は女系やね。男の人が続かんのや」と言われて嫌な気がしたものだった。香芳の父も和香子の父も二人の父親が続けて亡くなってしまったことをいうのだろう。

 その頃は既に香芳も大学を卒業して東京の出版社で働いていたし、寺は和香子が継いだ方が継父も喜ぶし、親子水入らずで暮らした方が良いという思いもあり、香芳は自由な立場を決め込んでいた。学生時代から、時々香芳はそんな風に家族にも言って、予防線を張っていた。

 君久が大腸癌で亡くなったとき、和香子はまだ京都の美術短大を出たばかりの二十歳だったが、住職のいない寺を支えるためにせっかく務め始めた友禅染の工房を辞めてすぐに見合い結婚した。和香子は香芳の心を知っていたから、遠慮して香芳には自分の心の奥底をあえて語らなかったのか。和香子らしい気がする。
 ただ、泣いたというのは、若い女性の結婚前の心の揺れ動きだけなのか、もっと深い気持ちがあったのか。確かに若い娘が家の事情で二十歳そこそこで見合い結婚をするというのは、気が進むことではないだろう。自分の方から、もっと和香子の気持ちをよく聞いてやればよかったと思った。聞きたかったけど、あえて忙しさにかこつけて、やっかいなことに触れようとしていなかったのでもある。

 香芳が大学時代京都に遊びに行ったとき、ついでに北白川の和香子の下宿にも寄ったことがあった。その下宿に行ったとき、ちょうどボーイフレンドも訪ねて来て楽しくおしゃべりした。
 もしかしたら、和香子には好きな人がいて、それで尚更悩んだのではないか。でも、それなら一言でも言ってくれればよかった。ただ、外に出たがっていた香芳が寺の跡取りに納まりそうにもないのは和香子もよくわかっていたのかもしれない。それから和香子もまた、自分と和香子は父親が違うことを知っていたのかもしれない。

 けれどそうして和香子が家を継ぎ、結婚してくれたお陰で寺も存続できたし、家族も生活することができた。それだけでなく、五十近くになって職を失った姉に住む所や近親者の近くでこうして落ち着ける居場所を与えてくれたのだ、と思った。和香子は自分の娘のことを思って話していたことがある。「あの子は早く結婚して安心させてほしい。家庭を持つことの幸せを味わってほしいが」和香子の結婚は幸せだったのだろう。きっと、義弟と和香子は良い夫婦だったのだろう。

 夜、十一時頃、香芳が風呂に入っていると珠緒が見に来てドアを叩きながら「香芳、香芳、おらんがか、香芳」と呼ぶ。またか。「はい、はい」と返事をするが耳が遠いので聞こえない。上の若い人たちに聞こえないか、気が気でない。
 しょうがないから濡れた髪のままでドアを開けると
「おらんがか。返事しまっしま。おるがなら返事しまっしま」と言う。
「おるよ。大きい声出したら上に聞こえるから出せんがやん」
「死んどるがかと思った。心配で」
「どうして。死んどるわけないないやろ」
「わからんやろ。死んどるがか思うわいね。風呂入るがならドアの鍵開けて入らんか」訳のわからないことを言い出す。

 翌日も珠緒は覚えていて「香芳、風呂で死んどる人、よくおるがやよ」と繰り返す。
「雅子叔母さんも風呂で亡くならはったやろ。寝とってお湯の中、浸かったら死んでしもうやろいね。あんた死んだら、私も死んでしもわんなんわ」
 つまり、香芳が死んだら看てくれる者が誰もいなくなる、と言うのだろう。

 次の朝、起きたら珠緒が脇腹が痛いと言い出す。起きがけにべットと引き出しの木箱との間に挟まってあばら骨を折ったのだ。
「痛い? 大分痛い?」
「痛い。ほんとに痛いわ。骨、折れたがかもしれんね」
 緊急に病院へ行き、レントゲンをかけてもらった。医者は
「九番、十番、折れてますね。ここの所、ちょっとずれてるでしょう。一ヶ月は安静にいて下さい」
 身体をなるべくひねらないように、折れた方を下にしないように言われる。胸にバンドを巻いて安静にしなければならなくなった。元々、脊柱管狭窄症から来る腰の痛みに加え、去年の八月に背中の骨を圧迫骨折した。やっと回復してきて、以前の生活が戻ってきたと思った矢先である。

 そしてその数日後、思うようにならない身体をじれったがってベッドの上に立ち上がって寝間着を着ようとした。スプリングのきいたベッドの上に立ち上がろうとするものだから、たまらない。たわいもなくずれ落ちて頭から畳へまっさかさまに突っ込んだ。抱き留める暇もない。怪我はなかったが、よく怪我をしなかったものだと驚いた。

 ここ数年、珠緒は全てにおいて衰えが目立つようになった。ベッド生活の身体なのに十二月の深夜十一時頃に外に出て香芳の帰りを待っていたりする。
「外に出る必要はないがに。家の中で待っておればいいやろ」と言うと
「だって心配やもん、いつ帰るがかと思て」
 思ったことを子どものように押さえられなくなっている。夜中の十二時頃に蜂を見つけて家の中でティッシュを摑みながら素手でつかもうとして聞かなかったりした。気になることがあると真夜中でも、しびれる足でいきなり二階の香芳の部屋まで上がってきたりする。びっくりしたのは、和香子が死んだ原因が癌であったことも忘れてしまっていたことだった。 

 六月、背戸の庭にも手入れの庭師が入る。お茶を出しに行くと若い庭師がするすると高い枝から降りて来て、
「山法師の木が随分、伸びてきたので丸く切ります。夏椿の木が以前の木が枯れてしまっているので、それも切ってしまいますね」と言う。
「年取った木は枯れてしまってますが、その横に新しい芽が出てきて、こんなに大きくなっていますから」
 そういえばよく見ると若い大きな木は子どもの木で、すぐ側に葉を落として枯れて棒のようになっているのは元の親の木である。古い木は自分の寿命が来るとすぐ横に若い芽を出して命を繋ぐのだ、と彼は説明して
「また、いつか新しい芽が出て来るかもしれませんが、取らないでくださいね」と付け加えた。

 六月半ばを過ぎて、祠堂経(しどうきょう)の時期がやってきた。二日間を通し法話が三つある。祠堂経一日目は午後から始まり、二日目は午前と午後である。それぞれに、法話と読経を行う。
 一日目の午後、二日目の昼に出すお齋(とき)の準備で門徒衆が手伝いに来る。がんもどきや干し椎茸、竹の子、人参の煮染めに卵どうふ、春雨、油揚、胡瓜などのお酢和え、味噌汁に漬け物などを出す。報恩講のお齋の品数に比べれば少ないが、前日から間に合うように野菜を切りそろえ、しこみをする。
 
 二日目、お齋も出し終え、午後からの布教師の法話があった。
「私の寺は街から遠く外れとるもんで、お寺と檀家さんの間を取り持つものはお墓だけになってしもうた。都会へ移って行かれてもお墓があればその時に寺へ参りに来られる。そやけど、お墓のことで子孫に迷惑かけるがでないか、いうて永代供養のお墓とか、葬式も、最近は昔みたいに知り合いの者を全部呼ぶいう、派手なことはせん。だんだん、簡素になって、家族葬やら、山や海に蒔く散骨やら樹木葬やらいうがが出てきた。何年か前に『千の風になって』いう歌がはやったけど、お墓の前に行ってもそこに私はおらん、ちゅうがや。風や自然の中に溶け込んでおるちゅうがや。なるほどなあ、思たけど、そやけどお墓に行ってそこにおらん、いうがもどうかなあ、思た」

 法話は祠堂経らしい、聞きやすい内容だった。お墓というのも、時代によって変わっていくのだろうか。でも人の一生なんて、墓にすら残らない。それでは一人の人間が生きた証というものも、一人の人間が憎んだり、苦しみ悩んだり、楽しんだり喜んだりした思いというのも、一体どこへいってしまうのだろうか。人の生き死には形ではわかるけれど、目に見えない人の心の中なんて人生が終わったら、一体、どこにしまわれていくのだろうか。

 法話が終われば今年も祠堂経は無事に終わる。お齋のお菜も、今年、多くも余らず、時間も丁度良い頃合いにでき、上々だった。日頃の無沙汰を詫びつつ、無事を確認しあった善男善女がまた、来年の再会を願いつつ、それぞれの家路につく。
 
 背戸の庭を見ると、この一週間ほどの間に山法師と夏椿も知らぬ間に咲き終わり、その白い花房ごと青い苔の上にほとほとと散らして、代わりに花菖蒲の白い大きい華やかな花弁が、鮮やかな緑の中で灯明のように咲いていた。
                               了


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