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咳をしても一人。俺、死にたまうことなかれ。

 近況報告です。八篇あって、少し長いかもしれないです。




グッドバイ・焼肉屋さん

 アルバイトを辞めてしまった。大学三年の秋から二年間、働いていた焼肉屋だった。返事の際に、「喜んで〜!」と叫ぶタイプの、嫌いな焼肉屋だった。友人の紹介で入った。働いてるのはみんな良い人たちだった、当時の、とにかく暗くて内向的だった私を、容易く受け入れてくれた。

 最終出勤は月曜日で、どうにも暑いのか涼しいのか、よく分からない気候だった。自分で辞めるって言い出したのに、もうちょっとだけ働きたいと思ってた。プラットホーム、亀戸、黄色い電車が去ってゆく。

 昼過ぎから、仕込み作業に出る。どうせ今日が最後だからテキトーに働いてもよかったのだが、この店では最後まで偽善者でありたい、と思って、仕込み作業を丁寧に行なった。キャベツを千切りにして、袋に詰め込む。キュウリを切って、アイスを小分けにして、スープを煮詰めては、オクラを茹でる。仕込み作業は誰とも喋らなくていいから、大好きだ。

 仕込みが終わって、休憩に入ろうと手を洗っていたら、お店のドアが開く音がした。そこにバイトの後輩の子が居て、「あれ、今日シフト入ってたっけ?」と聞いたら、「こばさん、今日最後だって聞いたので」と、わざわざ私のために挨拶をしに来てくれたらしい。とても、嬉しかった。

 夕方になって、バイトの女子高生たちが来る。彼女たちはキャッキャと楽しそうで、あまり話したことがない私にも、「こばさん、新しいバイト見つかったんですかぁ〜?」なんて、聞いてきてくれる。「いやあ、笑、このままじゃあ、無職っす、笑笑」と返して、へらへらと、笑う。キャッキャと、笑われる。

 働きたくないけれど、オープンの時間が来たのでお店を開ける。二時間経っても客が来ない。この日は私が働いた二年間の中で、一番と言っていいくらい、暇な日だった。社員に、暇だったら店内の清掃をしろ、と言われたので、する。冷蔵庫やシンクを丁寧に拭いて、床を綺麗にブラシで磨いた。二度と入らない厨房。

 夕飯時になって、ようやく何組か客が来た。私は普段、ホール作業をすることが多いけれど、最終日はシフトのメンバーの関係で、厨房の担当だった。ご飯をよそって、サラダを作る。ユッケを盛り付けて、スープに溶いた卵を入れてかき混ぜる。もう最後なんだなあ、と思って、ラーメンを茹でる。ビビンバを火にかける。額に汗が滲んでくる。炭を使う焼肉屋で、炭窯がすぐ近くにあるので、厨房はサウナのように蒸し暑い。もう一人の厨房担当の先輩と、暑いですね〜、と話す。

 二十時からシフトに入って来た女子大生が、青い髪の毛を三つ編みにしていた。雑談の流れから、「今日、俺、最後なんです」と言ったら、「え、今日なんですか」と。今までありがとうございました〜、こちらこそありがとね〜、なんて二人で話して、またラーメンを茹でる。ホタテを解凍してお皿に盛り付ける。サラダを作る。

 深夜になって、お客さんが早々に帰ったので、いつもより一時間くらい早く締め作業を終わらせる。最後に、グリストラップの掃除をして、最後の仕事がドブさらいか〜い、と思いながら、炭の欠片や野菜の切れ端が浮かんだ、汚い水を掬い取る。

 ゴミ出しをして、お店のシャッターを閉めて、最後に店の前で写真を撮ってもらった。また遊びに来てください、と後輩たちに言われた。一つ前のバイト先は、逃げ去るように辞めてしまったので、バイトを辞めるだけでこんなに丁寧に見送ってもらえるなんて思ってもいなかった。楽しい、楽しい二年間だった。

 この焼肉屋で働くまでは、バイト先の人と何処か遊びに行くなんて、心底くだらねえ、しゃらくせえ奴らだ、と思っていた。

 でも、この焼肉屋の人たちは良い人ばかりだった。私みたいな陰気な人間も気軽に遊びに誘ってくれて、いざ行ってみると、とても楽しかった。皆で有明でバーベキューをしたり、レンタカーを借りて筑波に旅行に行ったり、房総半島を一周したり、夜通しボードゲームをしたり、バイト終わりに飲みに行ったり、カラオケに行ったり、パチンコに行ったり、楽しいことばかりだった。

 コロナ禍で大学生活がほとんど存在しなかったので、同世代の人たちと楽しい日々を送ることに慣れていなかった。そんな私の人生の中で、間違いなく、この二年間はかけがえのない時間になった。ありがとうございました。本当に、皆さんに出会えてよかったです。素晴らしい日々でした。

 


「もういいよ そういうの」

 くるりの楽曲の中に『琥珀色の街、上海蟹の朝』という曲がある。「上海蟹、食べたい♪」のサビが有名な、割と知名度がある曲だと思われる。

 その歌詞の中に「もういいよ そういうの」というものがある。この部分を聴くたびに、私は背筋が涼しくなる。良い意味でも、悪い意味でも。当該部分と、直前の歌詞を以下に記したので見てほしい。

何はともあれ この街を去った 
未来ではなく 過去を漁った 
明後日ばっかり見てた君 それはそれで 誰よりも輝いてた 
ずっと泣いてた 君はプレデター 決死の思いで 起こしたクーデター
もういいよ そういうの
君はもうひとりじゃないから

くるり『琥珀色の街、上海蟹の朝』

 詳しいことは分からないけど、この曲はヒップホップみたいな感じで、ラップみたいな感じである。ラップと言ってもトゲトゲした内容ではない、いわゆる「チルい」曲(こんな言葉は使いたくない、だがあえて使う)だ。上記の部分も、丁寧に韻を踏んでいて、聴いているだけで体がリズムに乗りたくなる。それなのに、突然「もういいよ そういうの」は現れる。

 歌詞を辿れば、“決死の思いで起こしたクーデター”のみに対して、「もういいよ そういうの」と、言っているようにも思える。クーデターなんてしなくていい、って。でも私は、岸田繁の吐き捨てるような歌い方も相まって、この一連のラップそのもの、つまりこの姿勢に対して、「もういいよ そういうの」と、言っているのだと思ってしまう。

 この部分だけ、この歌の中で不自然に浮いている気がするし、惨たらしいほどの冷静さを持っていると思える。全体的に漂うようで、メロウで、宇宙的で、孤独感のあるこの歌の中で、この部分だけ第三者視点の、「正気」を保っている感覚がある。

 前提として、ラップってよく分からないけど、どこか居場所が無くて、社会や時代を恨んでいる人が頼るような部分があると思う。私はこの歌そのものが、ラップを用いて、苦しい現実から目を背けて、心の中でわだかまっている感情を煮えたぎらせて、周りを取り巻く環境から、なんとかもがいて脱出しようとしている歌のように捉えられる。それを否定するつもりはないし、私はそれがむしろ良いことだと思っている。

 コロナ禍になって、同世代の若者の間で、いわゆる「チルい」曲が持て囃されるようになった気がする。それは目の前に塞がっている現実が、あまりにも酷たらしすぎて、不安定で、途方もないことが明らかになったから、現実から逃げ出したくなってしまうから、そういう歌が流行ってるのだと勝手に私は解釈した。

 岸田繁が、この歌の中で冷酷に「もういいよ そういうの」と、そして暖かく、「君はもうひとりじゃないから」と寄り添って言うことが、この歌そのものを救うことになって、この歌を聴いている私たちも、報われることができているのではないかと思った。この歌を聴くことで得られる特別な多幸感は、岸田繁のこの視点があるからなのではないか、と「もういいよ そういうの」の部分を聴いて、私は思った。



腰痛×首痛

 最近、腰が痛い。ここ二週間くらい、ずっと痛い。最初はしゃがめないくらい明確な痛みがあったけど、数日経つと次第に痛みが引いていって、二週間経った今では、「痛み」と「違和感」の中間くらいになった。しゃがもうと思えば、しゃがむこともできる。

 今までの人生で腰が痛くなったことがなかったから、「あれ?」と気づいた時には、もう痛くなっていて驚いた。先述の通り、既に痛くなってから二週間ほどが経過しているけれど、いまいち良くなっている気がしない。

 ぎっくり腰のような決定的な瞬間があったわけでもなく、ただ気づいたら腰が痛くなっていた。調べてみると、運動不足、だのなんだと書かれていたので、とりあえず散歩をしたりストレッチをしてみる。少し良くなった気がするけど、痛みは無くならない。

 私は幼少期に、側湾症を患っていたので、顔馴染みの整形外科が地元にある。そこの先生に一度診てもらえたら、気持ち的にもかなり楽になるんだろうなあ。最近はずっと日常に追われていて忙しいけれど、何処か時間を作って診てもらいに行くしかない。

 春から新生活を送り始めて、長時間、座り続ける場面が生活の中に多くなった。その影響なのか、身体中が凝っている感覚が常にある。先日は、朝起きて伸びをしたら首を捻挫した。二ヶ月経った今でも首は完治はしていない、どうにも波があるようで、痛くなる時は首の周りに違和感があって、気持ちが悪くなる。

 お酒を飲むと、次の日に首の違和感が酷くなっているような気がするので、最近は極力、お酒を飲まないようにしている。腰が痛いのは腰が痛いだけで済むけれど、首が痛いと気持ちが悪くなってくるから、そっちの方が嫌なんだよな。

 いつまでも健康でいたいので、整形外科に行くしかない。絶対に近いうちに行きます。絶対に行ってやる。今は生活に支障が出るほどではないけど、こういうものは早めに診てもらったほうがいいはずだから。満身創痍である。


その男、東京二月(につき)

 東京の街に出てきました、相変わらず訳の分からないこと言ってます。東京の西の方で一人暮らしを始めて、二ヶ月が経った。気付かぬうちにもう、二ヶ月も経ってしまったらしい。

 最近は、明かりの点いていない部屋に帰ってくるのにも慣れてきた。「生活」が効率化されてきて、「生活」をすることが楽しいとさえ思えてきている。一人暮らし、楽しいけれど寂しい。特に意味は無いけど、家の鍵を部屋に帰ってきてすぐに冷凍庫に投げ入れるのにハマっている。毎朝、冷えた鍵を冷凍庫から取り出して外出する自分が、滑稽で仕方なくて笑顔になれるからである。

 一人暮らしをする上で一番あってよかったと思ったものって、冷蔵庫とかはもちろんだけど、それを除いたら、炊飯器だと思う。炊飯器さえあったら、お米が炊ける。最悪、何も食べるものがなくても、お米があってご飯が食べれたら、それだけで「ああ、もうちょっとだけ生きられそう。生きていいのかもしれない」という安心感が得られる気がする。

 この前、東京に来て初めて友人と遊んだ。いま通っている学校の友人で、正確には「学校」ではないんだけど、その友人に「次の日学校無いし、この日に遊ばない?」と誘われて、学校かあ、いいね、となった。彼とは、同じ高校や大学に通っていたとしても友達になれていただろうな、と思う。

 カラオケに行って、Cody・Lee(李)の『我愛你』を歌ったら、その友人が尾崎リノのパートを裏声で歌ってくれて、切実に、ああ、こいつと、もっと、もっと仲良くなりたいなあ、と思った。

 夜の東京。みんな楽しそうだけど、不干渉でお互いに触れ合うことは少ない。交わることがないのに、みんな淋しそうで、楽しそうで、目だけ合ったりする。

 一人でいると、何もしていなくても気持ちが落ち込むことがある。洗濯ができると気持ちが晴れやかになる、ゴミ出しができると自分を褒めたくなる。料理なんてことは面倒臭いけど、たまにやると楽しいから困る。何でもいいからそれらしく家事をしていれば、生活を成り立たせることができている、と思えて自分に自信が持てるし、嬉しい気持ちになる。

 久しぶりにラーメン屋でラーメンが食べたいと思って、麺屋かむいというお店に行って、ラーメンを食べた。アーケードを一本外れた道の角にある、新しそうなお店だった。店主さんは朴訥とした雰囲気で、券売機で何かを買うのは久しぶりだった。

 十九歳の時に不安障害を患ってから、体調が悪くなることを何よりも恐れるようになった。特に、食べ過ぎや飲み過ぎで気分が悪くなるのが怖くて、周りの人やお店に迷惑をかけてしまうのが、嫌だからだった。

 開店寿司や居酒屋だったら、少ない量をちょっとずつ、自分の食べたい分だけ頼めるから、不安にはならない。ラーメンの場合だと、最低でも一杯、ドン、とラーメンを持ってこられて、湯気と見た目だけで、「ああ。残しちゃうかも、体調悪くなるかも」と、不安になってしまうから避けていた。

 久しぶりのラーメンは美味しかった。夕飯として食べに行ったのだが、昼寝をして寝起き、そして昼ごはんを変な時間に食べていたので、食べ切れるか不安で仕方なかった。それでもラーメンは美味しくて、無事に食べ切れることができたばかりか、もうちょっと食べたいな、とすら思ってしまった。自信がついた。

 出来る事と出来ない事を決めつけて、何かに挑むことから逃げ続ける日々だった。夏フェスとかも、体調が悪くなったら嫌だから避けてるけど、本当は行ってみたいんだよな。誰かと旅行にも行きたいけど、誰かと行動すると、体調を崩した時に、その人に迷惑がかかってしまうから、申し訳なくて行けないんだよな。

 “東京”に、もう少しだけもたれかかって生きてみようかな。合う人と会って、もう少しだけ刹那的に生きてみようかな。お酒をたくさん飲んで、帰ってこれないところに行ってみようかな、と思っている。



洗剤の匂いを選ぶ自由

 洗い物をしていたら、食器用洗剤を切らしてしまったことに気づいた。急いで息を切らして買いにゆく。私は緑茶の匂いの洗剤が大好きなので、いつも通り緑茶の匂いを手に取る。

 ふと思った、私たちには洗剤の匂いを選ぶ自由がある。緑茶の匂いでもよい、柑橘系の匂いでもいい。好きな匂いの洗剤を選んで、好きなだけお皿を洗ってよい。改めて考えてみると、さも当然なことのように思えるけど、これが当然じゃない人が世界中には一定数居ると思う。

 洗剤だけではない。好きな色の服を選んでいい、好みの音楽を聴いてよい。起きたい時間に起きていい、寝たい時間に寝てもいい。行きたい店を訪れていい、食べたいものを食べてよい。海が見たければ海に行ってよい、海に入りたければ海に入っていい。つま先だけ入ってもいい、足首まで入ってもいい、膝上まで入ってもいい。頭から飛び込んでもいい。

 これができない、もしすると(社会的・政治的に)命の危険がある環境で、生きている人は居るはずである。そう考えると、私たち(少なくとも、日本の、特に、東京で生きている二十代前半の人間)の生活って、かなり恵まれているというか、もっと気軽に楽しんでよいモノのはずなのに、私はいつも心の内側に閉じこもって、家の周辺の狭い範囲で、同じ行動をしてウジウジしている。

 洗剤をスポンジに染み込ませる。緑茶の匂いが広がる。本当ならば、今すぐ家を飛び出して北海道に行ってもいいはずだ。歩いて実家に帰ってもいい。高円寺の路上で歌を歌ってもいい、タバコを吸ってもいい。ベランダで踊ってもいい、カーテンの色を替えてもよい。

 それでも私はやらない。金銭的に厳しいという理由もあるけど、本気でやりたかったらできる、払える範囲の金額だ。それでもどうして私は何もやらないで、こんな狭い部屋でお皿なんて洗ってるんだろう。悲しくなるけど、やらない理由も分からない。

 日常に変化を求めている。それでも、いつもと違う道を曲がって家に帰ってみるとか、いつもと違う味のパンを買ってみるとか、できることはあるのにやってみない。道に迷ったらどうしよう、行き止まりだったら時間の無駄だ。美味しくなかったら、口に合わなかったらどうしよう。いつも、新しいことをして、失敗することを恐れているから。

 何かをする自由がある街で生きていながら、何もしようとしない自分が憎い。ただ私には、何もしない自由もある。いつも通りの道で家に帰って、いつも通りの味のパンを買い、いつも通り緑茶の匂いで食器を洗い、いつも通りの香りのシャンプーをして、いつも通りの好きな音楽を聴いて眠る自由がある。

 無理に今の生活を変えようとしなくても、興味の湧くことだけでも手を出していったら、気づいた頃には少しずつ生活がずれていって、一年くらい経った後には、あの頃とは全く違う自分になれているかもしれない。なっていなくてもよい。



“言葉”に囚われている

 日常会話の中で、間髪を「かんぱつ」と読んだり、依存を「いぞん」と読むことができない。鋭い言葉を用いるならば、私のプライドが許さないというか、曲がりなりにも、大学で日本語・日本文学を学んでいたので、言葉の細かいところが気になって仕方ない。

 上記のような例ならまだいいけれど、例えば、重複(じゅうふく)とか、早急(そうきゅう)とかは、本当に口が裂けても言いたくないかもしれない。

 この問題の特に良くないところは、他人がこれらの読み方で言葉を読んでいる場面でも、色々と思ってしまう点である。決して相手に直接指摘することはないが、自分の中で一瞬モヤッとしてしまって、その相手の話を少し聞き逃すこともある。先日は、この人は信頼が置けるな、と勝手に思っていた人が、重複を「じゅうふく」と言っていて、やっぱりなんか違うかもな、と勝手に幻滅したりしてしまった。

 それでも、納得のいかない部分もある。例えば「一段落」という言葉を見せられて、パッと「読め」と言われたら、私は「ひとだんらく」と言ってしまう。NHKでは、より伝統的な読み方であるから、という理由で、「いちだんらく」と読むことに統一しているらしい。やんわりと書かれているが、「いちだんらく」の方が正しいということだろう。でも私の生活の中では「ひとだんらく」の方が馴染みがあるし、脳内の引き出しの中では、スッと取り出せる近いところに「ひとだんらく」が、しまってある。

 独擅場(どくせんじょう)という言葉がある。コトバンク(精選版 日本国語大辞典より)曰く、言葉の意味は、「その人だけが思いのままにふるまうことができ、他人の追随を許さない場所・場面。ひとり舞台。」らしい。一般的に用いられる、独壇場(どくだんじょう)という言葉は、この独擅場(どくせんじょう)の誤りから派生したらしい。確かによく見てみると、使われている漢字が似ているが違っている。

 日常の中で、「この分野は、〇〇さんの独壇場(どくだんじょう)だなあ」なんてことを言う場面があるとしよう。私は、この時にわざわざ「〇〇さんの独擅場(どくせんじょう)だなあ」なんてことは言わない。周りが「え、どくせんじょう?」となることは目に見えていて、私自身も(本来は正しい表現なはずなのだが)言っていて何となく気持ちが悪い。衒学的だな、と思ってしまう。

 「確信犯」とか「話のさわり」は似て非なるもので、言葉の読み方ではなく、使い方の間違いの場合は、私も何が正しいのか分からないことが多い。例えば「確信犯」は、自分の行なっていることが正当な行為だと確信してやっている人のこと、「話のさわり」は話の中の最も盛り上がっている部分のことを、本来指した言葉らしい。

 友人などが「話のさわりだけ聞いて帰ってきちゃった〜」などと話してくれても、正直マイナスな感情は何とも抱かないが、一瞬「あれ、これ使い方合ってるっけ?」と、思ってしまうのは事実である。この前も、『名探偵コナン』を見ていて、蘭姉ちゃんが「怖い話のさわりだけ聞いてやめるのって、より怖いじゃん」と言っていて、「あれ?」と思ってしまった。

 こんなこと、気にしてる方がおかしいのかもしれない。それでも何となく私のプライドが許さなくて、読めない、言えない、使えない表現が日本語には多い。

 先日は、何かズルくて卑しいことをしている人がいて、「卑怯だなあ」と言ってしまった。その時に「あ、これ間違った使い方だ。でも本当の意味って何だっけ」と思った。家に帰って調べてみると、私が使った使い方で合っていた。間違って使われやすい「姑息」と、ごちゃごちゃになっていたらしい。

 何というか、ここまで来ると生きづらいとかを越えて、もはや病気に近いものなんじゃないかと思ってしまう。何が正しくて何が間違ってるかで脳内ががんじがらめで、瞬発力が試される場面でも、言葉を吟味して時間だけ経って、その場が私のせいでつまらなくなっている。

 今も、「生きづらい」を「生きずらい」って書いて何も思わない人はなんか嫌だな、と思っている。思ってしまうのは良くないけれど、どうしても思ってしまうので、もう諦めかけている。

 

『名探偵コナン』の好きな話・三選

 『名探偵コナン』という漫画・アニメがあって、私は結構、このアニメが好きである。黒の組織だとかラムだとか、最近の展開はよく分からないけど、今でもHuluで、昔のコナンのアニメを繰り返して観ている。

 そんな私が選ぶ、昔のコナンの好きな話を少し紹介したい。わざとではないがネタバレがあるので、諸君くれぐれも目には気をつけるように。


・『ピアノソナタ「月光」殺人事件』(シーズン1、第11話)

 伊豆にある月影島(つきかげじま)の、麻生圭二という人物から暗号文が届き、コナン、蘭、おっちゃんの三人が島に赴いて連続殺人に巻き込まれる事件。『名探偵コナン』シリーズの中でも屈指の人気を誇り、現在でも素晴らしい話として名前の上がる事件の一つである。

 遺体が発見される度に、ベートーベンの『月光』が第一楽章から順に流れる演出が、美しくも恐ろしい。私怨に留まらず、村長の椅子を狙った選挙運動、裏で行われる薬物の売買など、断絶された孤島で様々な人物の思惑が交錯する描写が、大変面白い話である。

 私がこの話を好きな理由として、この話は「夜」の描写が素晴らしいと思う。まずは、月影島の前村長の法事が公民館で行われた夜。この公民館で、第一の事件が起こる。コナン、蘭、おっちゃんの三人が、月明かりの下で暗号文の本当の意味に気づく場面があり、このシーンの衝撃と月の描写が不気味で素晴らしい。

 三人は事件解決の為に、被害者の死体と共に一夜を明かすことにする。この展開は、冷静に考えれば、あまりにも異常で突拍子がない。死体の横で風呂敷を広げて夜食を食べたりして、どういう神経してるんだ…、と思ってしまう場面もある。それでも、「死体と同じ部屋でコナンたちが一夜を明かす」という描写が、エキセントリックで、興味を惹かれるのも事実である。閉鎖された山荘などなら分かるが、宿に帰ろうとすればできるのに、公民館に泊まって死体と同じ部屋で寝る、という選択をする部分が、異常な「夜」を演出していて面白い。

 第二の事件が起こった夜、島の小さな交番に、事件に関係する楽譜を探しに向かうシーンが好きだ。月明かりの下で、駐在の老警官とコナンが語らいながら二人きりで歩いている。さっきまで殺伐とした事件が起きて、今も大事な楽譜を探しに行くというのに、二人の会話の雰囲気は和らげで、コナンが老警官から話を聞き出そうとして巧みにあしらわれる、この流れの緩急が好きだ。

 先述の通り第二の事件では、『月光』の第二楽章が流れる。聴いてもらったら分かると思うが、『月光』の第二楽章は軽やかで明るい曲調で、とても殺人が起きるような雰囲気はない。それでもコナンが階段を駆け上がっている途中で、この第二楽章が流れ始めたときの、ゾッとする感覚は簡単に言葉では表せられない。明るいけれど恐ろしい、明るいが故に不釣り合いで恐ろしいというか、この場面は、私が何かを創る上で大きな影響を与えてくれた。

 全体を通じて完成度が非常に高く、アニメシリーズわずか第11話にして、ここまで雰囲気が作れるものかと感嘆する。最後の、楽譜で犯人がコナンに当ててメッセージを送るシーンは今でも強く印象に残っている。


・『毛利小五郎のニセ者』(シーズン6、第243~244話)

 私はこの話が大好きだ。コナン、蘭、おっちゃんの三人が、四年前に起きた不可解な事件の解決の為に、群馬県警の山村刑事と共に葵屋旅館という旅館を訪れる話である。蝉時雨が降り注ぐ真夏に起こる、汗がシャツにぐっしょりと滲んだような不快感が残る事件である。

 この話はタイトルの通り、毛利小五郎のニセ者が登場する。四人が旅館に着いて名前を告げると、「毛利小五郎様のお連れさまですか、毛利様なら先にお部屋でお休みになられてます」と言われる。この時点で興味を惹かれる、不思議な感覚がする。

 この時の本物の毛利のおっちゃんは、名探偵がまぶたを蚊に刺されたことを知られたくない、と言ってサングラスをかけて顔を隠していた為、旅館の従業員は四人を刑事とその連れだと理解して別の部屋に通した。初期の話では、毛利小五郎の名前がまだ知られていなかったので、ぞんざいな扱いを受ける場面は多々あった。それが、有名になった後でこのような話が出てくるというのが面白い。群馬県の田舎の忙しい旅館ということもあって、名前は知られてても顔は何となくでしか分からない、というのも現実味があって良い。

 ニセ者の化けの皮が剥がれるまで待とう、と言って、部屋で宴会をするおっちゃんと山村刑事。蘭は二人に呆れて、コナンは旅館から出て行った人物がいないことを密かに確認する。翌朝、首を吊ったニセ毛利小五郎が発見されて、旅館中は騒然となる。

 この事件の興味深い点は、入り組んだ背景にあると考える。簡単に言ってしまえば金銭目当てが動機の殺人なのだが、その背景が少し特殊で面白い。

 四年前に起きた不可解な事件とは、赤いジャケットを着た長髪の男が、葵屋旅館に一つのアタッシュケースを預けて、一年後に旅館の近くの森で自殺したという事件である。このアタッシュケースの中身は一枚のスポーツ新聞で、新聞の間には長い髪の毛がいくつも挟まれていた。

 これは長髪の男が残した呪いなのか、それにしても入っていたのは、スポーツ新聞?と、不可解である。この少しズレている、スポーツ新聞という感覚が、より事件としての興味深さを増している。これが血まみれの刃物だったり、鈍器だったりしても、面白くない。「スポーツ新聞?なんで?」という、訳の分からない部分が恐ろしくて好きなのである。

 そして、赤いジャケットの長髪の男の死体が持っていたモノが、この事件の中でも象徴的であると考える。潰れたあんぱん、潰れた牛乳、潰れたタバコ。そしてこれらを買った際のレシートが一枚。ここが、何とも不気味というか、一見何の変哲もないものたちが、実は事件に大きく関わっているという、そういう部分が好きなのである。

 最後に犯人を決める決定打となった証拠が、犯人の善意で行われた行動だったというオチが痛快で、この事件を他の事件とは異なる、特別なものにしていると思った。山村刑事が躍動する最終盤も見応えがある。ぜひ見てほしい、夏の群馬の暑さが伝わってくるような話である。


・『炎の中に赤い馬』(シーズン8、第325~327話)

 この事件は、私がコナンシリーズで最も好きな話である。まず、都内では最近、連続放火事件が発生していた。そしてどの現場にも、警察の隠語で放火犯を意味する「アカウマ(赤い馬)」の人形が置かれていて、これは警察への挑戦状だと考えられた。

 狙われた家は、一件目は梨善(りぜん)町一丁目、二件目は鳥矢(とりや)町二丁目、三件目は〜、と、数字の順になっている。この時点で、かなり興味深い。そして、次は都内のどこかの四丁目で事件が起きるに違いない、と考えた、コナン、おっちゃん、そして、東京に来ていた服部平次の三人は、夜中に怪しい人影が出るという相談を受けた、杯戸(はいど)町四丁目の家に向かう。

 三人が家を訪れると、依頼者の女性に「あれは気のせいだった」と言われて帰される。おかしいと思った三人は、家の前で張り込みをすることにした。家には怪しげな人物たちが複数人出入りをしているようで、三人は庭から家の中を覗き込んだりと、調査を進める。

 その晩、三人が探偵事務所に帰る途中で、四丁目の家に火が点けられた。依頼者の女性が亡くなり、三人はもうちょっと長くあの場所で見張っていれば助けられたのに、と後悔する。

 この事件は、視聴者を楽しませてくれる目新しい描写がとても多い。まず、コナン、服部、おっちゃんの三人だけで調査に行くという点が新鮮である。そして火災犯捜査一係の、弓長警部という人物が登場する、この弓長警部は毛利のおっちゃんの昔の上司で、四人で夜の東京を歩き回って捜査をすることになる。

 また、この事件では、コナンたち捜査グループとは別に、蘭と和葉が探偵事務所で留守番をしている描写が度々挿入される。ショッピングで買った服を並べたり、コナンたちの為に手料理を作ったり、明日が晴れるようにてるてる坊主を飾ったりと、何事もない時間を過ごしている二人だが、徐々に徐々に、彼女たちも事件に巻き込まれていることが、視聴者に明らかになる。

 殺伐とした捜査グループと、牧歌的な蘭たちが、実は同じ事件で繋がっていたことが確かとなる場面では、私も思わず声を出してしまった。「おっちゃん、あんたの事務所、何丁目や」「え?」「何丁目やって聞いてんのや」「ご、五丁目…!」このシーンは痺れる、本当に良いなあと思える。

 この事件は、四丁目の事件が起きてから犯人が特定されるまでの捜査パートが、非常に長くて、そこが他の事件と一線を画していると私は考える。四丁目の家の張り込みから、夕方の放火事件発生、当日の夜のアリバイ捜査、翌日の昼の現場捜査、翌日の夜の犯人特定と、それぞれの展開をこと細かに描いている。その為に、実際に自分が事件の中に飛び込んだような感覚を覚えて、コナンたちと一緒に捜査をしているような気分が味わえる作品である。

 この事件の、いつまでも昼が続いているような雰囲気が好きだ。実際は上記の通り、夜の描写も同じくらいはあるのだが、他に事件ではあまり描かれにくい、昼間の捜査の部分に重点が置かれているので、この事件は「昼間」という印象が強い。

 放送での三話分、つまりは、およそ一時間半を使っていることもあって、この事件は良い意味で、長い。それ故に、視聴しながら意識ごと事件に入り込める。また、この事件ではおっちゃんが「眠りの小五郎」として事件を解決することはない。コナン、服部、おっちゃん、弓長警部の四人が力を合わせて事件を解き明かす、それまでにあまり見たことがないクライマックスで、観る者を楽しませてくれる。面白くて、素晴らしい事件である。



透き通っていた高校三年間

 高校二年生の時に、修学旅行で沖縄のパイナップルパークに行った。私はクラスに仲の良い人が一人もいなかったので、「ソシャゲ好きが集まった地味な男子のグループ」に入れてもらって、パークを回っていた。

 出口の近くに、私たちの高校の修学旅行に帯同してるカメラマンが居て、「ここのみんなで写真を撮ろう」と、私たちのグループをパイナップルのオブジェの前に立たせた。そして、「君たちも一緒に入って」と言って、たまたま近くにいた、クラスの明るい男子たちを手招きした。

 その時の彼らの、「え、笑。コイツらと一緒に写るの?笑」という、私たちを見下した、あのニヤついた顔を今でも覚えている。あの時に、ああせっかく沖縄まで来たのに、人生ってこんなにつまらないままなんだ、と思ったことを覚えている。

 高校生の時に好きだった女の子は、学年で一番、頭がいい子だった。テストは毎回一位で、それでいて、そのことをひけらかすことなく、常に朗らかで笑顔が素敵な人だった。私たちの高校は、千葉の田舎にある偏差値50くらいの平凡な学校だったけど、彼女の頭の良さは突き抜けていて、たぶん、早稲田でも慶應でも、千葉大でもどこでも受かるくらい頭がいい子だった。 

 彼女は、指定校推薦を取って、東京の西の方の、あまり名前を聞いたことがない大学に進学していった。学年一位の成績なんだから、ドラフト一位の権利を持ってるのと同じで、中央大でも法政でも、日東駒専でも、どこの大学でも推薦が取れたはずだった。それなのにどうして、あの子はあの大学を選んだのだろう。

 彼女に一度だけ、世界史のノートを借りたことがあった。私が風邪で休んだ後に、写させてくれと頼んだからだった。板書が綺麗にまとめられていて、触れることすら許されないくらい貴く思えてすぐ閉じた。

 高校三年生の私は、とにかく成績が悪くて授業にもあまり出ていなかった。一時の気の迷いで、望んでいないのに理系クラスに入れられてしまって、もう学校を辞めてしまってもいいかもな、とさえ思っていたのである。

 内容が分からないから楽しくない、楽しくないから授業に出ない、授業に出ないから内容が分からない、の循環に陥っていた。昼休みに体育館でやるバスケと、午後にある体育の授業だけが楽しみで、毎日、昼前に登校してバスケと体育をやって帰る日々だった。

 特に成績が悪かったのが物理で、もう少しで評定が「1」、つまり卒業できない可能性が出てくるくらい成績が悪かった。物理の先生は変わった人で、「理系は頭を使って楽をするために勉強するのだ」と言うような人だった。クラスの皆がその発言に笑っているなか、私は既に文転することを決めていたから、一人だけへらへらと笑ったふりをして、窓の外をずっと眺めていた。

 高校時代は演劇部に所属していた。三年生の六月に引退をしてからも、たまに部室に顔を出して、後輩の練習を見学させてもらっていた。後輩からしたら面倒くさい存在だったろうけど、それでも私が部室に行くと、みんな「こば先輩!」と駆け寄ってきてくれたりした。私には相応しくない、良い後輩たちだった。

 私が大学一年生の六月、一個下の後輩の引退公演があったので観に行った。演目は、私たちの学年が高校一年生の時に演じた、中屋敷法仁の『贋作マクベス』だった。「先輩たちへのリスペクトを込めて」と、後輩の誰かが言っていた気がする。

 入部してきたときはあんなに声が小さかった後輩たちが、彼らだけで堂々と舞台をつくっていて、自信を持って演技をしていて、心から感動した。それ以降はコロナ禍もあり、私は演劇部の人たちと連絡を絶ってしまったが、今でもあの、演劇部で過ごした数年間は素晴らしい時間だったな、と思っている。今でも生きている中で、あの演劇部での日々が、人生の、考え方の基盤に存在している、と、強く思える。

 学校のすぐ近くの幹線道路沿いにマクドナルドがあって、定期テストが終わって昼前に解放されると、その足で自転車を立ち漕ぎで、ダブルチーズバーガーを食べに行っていた。入って左側の席で、ここで演劇部の皆と喋っていたなあ、とか、私が演劇部を辞めるかどうか悩んだことがあって、後輩の男子と喧嘩くらい言い争いをしたなあ、とか、色々思い出してしまう記憶があそこにはある。

 道路のすぐ脇は田んぼになっていて、夏場はカエルの鳴き声がうるさいくらい鳴いていた。高校二年生の文化祭、前日。演劇部で、文化祭公演の準備を夜遅くまでやって、そのまま皆でマックまで行って、ポテトをつまんだりした。食べ終わって店を出たら、先に駐輪場に出ていた女子が、クロスバイクに腰掛けて「遅くない?」と、待っていた。別に今まで何とも思ったことがない、同じ学年の照明担当の女子だった。

 彼女のスカートは紺青で、夜の闇に照らされていて黒く見えた。そのスカートから綺麗な白い足が二本出ていた。後ろから、同じ学年の皆んなが、どやどやと出てきた。夏の夜の匂いに混じって、解散の雰囲気が漂っている気がした。

 カエルの鳴き声は止まなくて、誰か駅から帰る人いる?、私は自転車だから、私も、じゃあ明日本番がんばろうね、頑張ろう、うちのクラスのお化け屋敷来てよ、なんて口々に言っていた。幹線道路を大型トラックが何台も通って、照明の彼女の足がヘッドライトの明かりに照らされては消え、照らされては消えていた。

 当日は、午前中に公演をやって、二時間くらい昼休みがあって午後の公演をする予定だった。その二時間の間に、他の部員は自分のクラスに戻ったり、出し物を見て回ったりしていた。

 私はクラスに居場所もないし、見たい出し物もないので、剥き出しの渡り廊下から、浮かれた中庭を見下ろしていた。コの字型の校舎に囲われた中庭では、軽音楽部の奴らがバックナンバーを演奏していて、青臭い観客たちがそれを聴いて、くだらない感動をしているようだった。視界に入り込む全てのモノがくだらなくて、私はそれを斜に構えて、文字通り見下していた。みんな死んじゃえ、って思っていた。

 部室に戻ると、同じように居場所のない部員が何人か居て、その中の一人が、どこからかアコースティックギターを持ってきていた。照明が吊るされたままで、部室は暗幕が閉め切られて真っ暗だった。舞台上だけ明かりが照らされていて、平台が一台置かれていた。そこに彼が座っていた、誰かに聞かせようという意図もないみたいだった。

 彼がオアシスのワンダーウォールを弾き語るのを、私は、蒸し暑い部室の埃だらけのカーペットに横になって聴いていた。いつまでも聴いていた。途中で閉め切られていた入口が空いて、財布でも取りに来た女子が「お、やってるね」と言って、少し聴いてまた出ていった。

 いつまでも、いつまでもギターの音は頭の中に響いていて、中庭の薄っぺらい愛なんかの歌よりも、私の心をいつまでも掴んで離さなかった。離すことは今もなかった。

 

 

 




小林優希  

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