【小説】 怪物

「四人の助手が生贄の手足を抑え、煌びやかな衣装を着た神官が黒曜石で心臓を抉り出す。更に生贄は皮膚を引き剥がされ、神官はそれを着て祭壇に捧げられた心臓の前で踊る」
「うわ、想像しただけで吐きそう。そんなもん読むなよ」
「だって日本語で書いてあるんだもん、読みたくなっちゃうでしょ」


前を行くカップルの動きの鈍さに少し苛立ちながら、私は滴り落ちる汗を必死に拭っていた。
この洞窟は湿度が高くて非常に暑い。風通しも良くないようで、どんどん気分が悪くなってくる。
私は側壁に手をついて休もうとしたが、壁が鳥肌が立つほどぬめりけを帯びていて直ぐに手を離してしまった。
通路の横幅はおよそ2メートルほどで、天井だけが嫌に高く、我々の頭の遥か上空に存在している。
観光客向けの通路らしいが、状況はお世辞にも良くはない。
様々な言語で洞窟内の説明が書かれた看板があちこちに立っているが、入り口からここまでで日本語で書かれたものを見たのは今ので二回目だ。
日本語という言語がマイナーなのか、それとも私が看板に注意せずここまで来たのかはわからない。
しかし悔やむほどの内容は書かれていないということが今のでわかり、私は少し安堵した。
本当に暑い。
先頭を行くガイドが大袈裟な身振り手振りを交えて何かを説明してくれているが、それを頑張って聞き取ろうとする意欲すら失うほど環境が劣悪だ。
私の後ろを歩く家族連れは先程まで元気に会話をしていた様だが、今ではすっかり静かになってしまった。
どうやら連れている子供の体調が思わしくない様で、母親らしい女性が心配そうに抱きかかえている。
我々一行が必死に歩みを進めていると、やがて学校の教室ほどの広さの空間に出た。
そこは何かを行う作業場か何かだったのか、石で出来た机や椅子らしきものがそこらに無数に置かれていた。
疲労困憊の我々は直ぐに座って休憩しようとしたが、ガイドだけは嫌に元気であり、拙い日本語で壁に描かれた絵の説明をし続けている。
すると突然、私は一つの壁画に目がいった。
色鮮やかな絵たちに混じって一番右端に存在している、吐き気を催すほど黒ずんだ絵だ。
付近から滲み出ている、重くて冷たい、嫌な雰囲気。
間違いない、あれは血で描かれている。
絵に近づいた私はそこに、火を囲って踊る人たちが描かれていることを知った。
厚い唇、切り裂かれたように鋭い目。
東洋人か、こんなところに?
それとも目を閉じているだけなのか。
描かれている人間は全員、衣類を身につけていない。
これも何処かおかしい。
立ち止まって絵に見入っていると、ガイドが焦った様子で私の元に走ってきた。
どうやらみんな先を進み洞窟を抜けたらしく、私は置いていかれていたらしい。
安心したのか、ガイドは胸を撫でながら私にたくさん喋りかけてくる。
五分ほどまた狭い道を歩くと、視界の中心に明かりが見えてきた。
私はそれが夜空にぽっかりと空いた穴のように見えた。
眩しい日差しが目を射ると同時に、涼しい風が我々の周りを吹き抜ける。
私は心から安心して一息ついた。
開けた土地が広がっており、その先は崖になっている。
岩盤に波が打ち付けられる音が、足元から聞こえてくる。
ん?
崖の近くに石階段が設けられていて、海へと突き出たその先端に、四畳半ほどの広がりがある。


「これは何ですか?」
「こちらは生贄を捧げる神聖な祭壇です、聞いてなかったんですか?」


すこし気に障る言い回しだったが、私はガイドに一言お礼を言ってその場を去った。他言語学習が難しいことくらいは私も知っている。
近くに居た白人夫婦の話を又聞きしたところ、あの洞窟は奴隷が囚われていた牢獄だったらしい。
奴隷、生贄、ねぇ。


「ここからは自由行動です。時間を守って好きなように回ってください」


小学生じゃないんだから、と小さく呟きながら、私は、気分を変えて旧市街に行ってみよう、と歩みを始めた。
しかし、他のツアー客の殆ども洞窟で気分を害されたらしく、同じ考えを持ったモノで街道は満ちていた。
私は踵を返して海を目指した。緩やかなカーブを描きながら、砂浜へと続く道。
海に沿うように波打ち際を少しばかり歩いていると、頭の上に祭壇の先端がちょうど見えることに気が付いた。
あの頃の生贄たちも、この海に写る空の青さを見ていたのだろうか。
海を通すコトで空は違う顔を見せてくれる。


「あなたたちが最後に見たであろう青い空は、無機質な表情で貴方達を見下ろしていたであろう」


足の指の隙間を踊るように縫う海水と戯れていると、突然勢い良く雨が降ってきた。
空は晴れているのにおかしいなと思ったが、こんなところでも天気雨は通るものなんだな、と何処か冷静な自分も居ることに、私は気味の悪さを覚えたりもした。
その間に周りにいた皆は、わあきゃあと騒ぎながら雨宿りのできるであろう方へと走っていってしまった。
誰かが私に、濡れますよ、と言ってくれたような気がしたが、私は一人空を見上げて立ち続けた。
夜空に一つ開いた穴は、こちらを覗くか覗かぬか。
指を向こうから入れてきて、闇夜をこじ開けるその姿。
毛むくじゃらで熱を発し、人を生かしも殺しもする。
気が済むと地の果てへ去ってゆく、音はひとつも立てない。
その怪物は香るんだ。血生臭い匂いを香るんだ。
捧げられた心臓を、貪り吸い尽くして生きるのさ。
我々はあいつを欲してる。あいつは我々を見下ろしている。
乾いた吐息をかけてくる。腐った涙をかけてくる。


「生贄達よ、どうか泣かないでくれ。その空の中心で輝く太陽に、あなたたちは成り代わったのだ。誇れ、死者の魂よ」


彼らの涙は、儚い海となって溶けていった。




小林優希

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