池袋暴走事故に思うこと

1. はじめに

 昨日、池袋暴走事故で過失運転致死傷の罪に問われた90歳の被告に禁固5年の実刑判決が言い渡されました。

 池袋暴走事故は、一昨年の4月、東京・池袋で乗用車が暴走して母親と子どもの2人を死亡させたほか、9人が重軽傷を負った痛ましい事件です。

 2人の尊い命が失われ、また、多数の人が重軽傷を負うという悲惨な事件で、軽々しくコメントできるものではありません。それでも、この事件を通じて、私自身、報道の在り方やインターネット上での反応に疑問を持つことがありました。

 まだ判決が確定したわけではないものの、仮に事実だと確定すれば被告人の行為は許されるものではありません。しかし、他方で、刑事罰を科すという局面で感情的な議論が先行してはいけないとも思っています。そこで、主に法律的な観点から、ただし法律を学んでいない人にも理解できるような言葉で、私自身が感じてきた疑問について書き留めておきたいと思います。

2. 「上級国民」だから逮捕されないのか?

(1). 逮捕されなかった本件の被疑者

 本件は当初から被疑者が逮捕されることなく事件の捜査が進められました。

 これに対して、被疑者が旧通産省の官僚であったことから、いわゆる「上級国民」(私自身はとても嫌いな言葉ですが)だから警察が忖度して逮捕を見送ったのだと、多くの批判が殺到することとなりました。

 このような指摘は果たして正しいのでしょうか。

(2). そもそも逮捕の目的は?

 ここで、警察は何のために被疑者を逮捕するのかを考えてみましょう。

 悪いことをした(=犯罪を犯した)から逮捕されるのだ、と答えると、これは法的には間違っているということになります。

 そもそも、刑事裁判の大原則として、推定無罪の原則「疑わしきは被告人の利益に」の原則といったものがあり、これはかなりざっくりと説明するならば、刑事裁判においては判決が確定するまでは被疑者・被告人は無罪であるものとして扱われなければならないという考え方のことです。そうすると、逮捕された時点では当然判決は確定していないのですから、被疑者は無罪である(有罪かどうかはまだ分からない)という前提に立つべきであり、被疑者は犯罪を犯しているのだから逮捕するという発想自体が、刑事裁判の大原則に反することになります

 それでは、逮捕の目的は何かというと、大きく2つあるとされています。1つは、被疑者の逃亡を防ぐこと。もう1つは、証拠の隠滅を防ぐことです。

 特にインターネット上での批判を見ていると、悲惨な事件を起こしたにもかかわらず逮捕されないのはおかしいというものが大半を占めていました。しかし、これは、被疑者がこんなにも悪いことをしたのに逮捕されないのはおかしいではないか、ということを意味すると思われますが、そもそも、悪いことをしたから逮捕されるのではないのです。この点に、大きなボタンの掛け違いがあるように感じています

(3). 逮捕しなかったことは妥当だったのか?

 それでは、本件において警察が逮捕しなかったのは妥当だったのでしょうか。逮捕をするには、「逮捕の必要」が存在しなければなりません(刑事訴訟法199条2項ただし書)。そして、逮捕の必要性は、上で述べたように、被疑者が逃亡をするおそれがあるか、証拠の隠滅をするおそれがある場合に認められるということになります

 本件ではどうだったでしょうか。

 本件の事故では被疑者自身もまた怪我を負い、入院していました。また、被疑者が高齢だったことからすると、重症を負った被疑者が病院から逃走するということが現実的に考えられるでしょうか。このような観点からすると、被疑者が逃亡をするおそれは低いということになります。

 さらに、本件での証拠としては、例えば、ドライブレコーダーや現場の状況、被害者・目撃者の証言などが考えられます。特にドライブレコーダーなどの客観的な証拠は非常に重要なものとなりますが、おそらく事件直後にすべて警察が押収しているでしょう。そうすると、例えば、被疑者が警察によって押収されたドライブレコーダーを破壊するといったことも考えにくいのではないでしょうか。つまり、本件の被疑者が証拠を隠滅するおそれも相当に低いものであるといえるかと思います。

 もっと言えば、一度警察が被疑者を逮捕してしまうと、最終的に検察官が被疑者を起訴するまで厳格な時間制限に服することになります。すなわち、警察官による逮捕後の基本的な流れとして、警察官は逮捕のときから48時間以内に検察官に被疑者の身柄を送致し(刑事訴訟法203条1項)、検察官は24時間以内に裁判官に勾留(逮捕よりも期間の長い身柄拘束のことです)の請求をしなければならず(刑事訴訟法205条)、そして、原則として勾留請求の日から10日以内に被疑者を起訴しなければならないということになっています(刑事訴訟法208条1項)。

 言い換えれば、一度逮捕してしまえば何か月もかけてじっくりと捜査してから起訴するかどうかを決めるということはできなくなるということです。実際に、本件の被疑者が起訴されたのは2019年11月のことでした(事故発生は2019年4月)。

(4). まとめ

 以上のことからすると、そもそも逮捕の必要性がなく、また、逮捕をしないことでむしろ時間をかけて捜査して起訴・不起訴の判断をすることができるという2点から、一応は警察の判断を法的に合理性をもって説明することができます。

 もちろん、実際のところ何らかの忖度があった可能性を完全に否定することはできません。しかし、重要なことは、被疑者が逮捕されなかったことが全くもっておかしいとは言い切れないということです。

 もし仮に、何らかの忖度の下で被疑者が逮捕されなかったとすれば、それは法の執行の在り方として明らかに不当なものであると言わざるを得ません。しかし、警察が本件の被疑者を逮捕しなかったことを合理的に説明できる以上は、頭から忖度が働いたと決めつけてかかるのは正しい態度とは言えないと思います(さらに言えば、実際に忖度があったとしても、忖度、すなわち周囲の者が気を遣ったというのであれば、非難されるべきはその周囲の者(警察関係者)であって、被疑者ではないとも思います)。

3. 事故が起きたのは車の故障のせい?

(1). 自らの過失を認めなかった被疑者・被告人

 本件の被疑者(被告人)は、一貫して事故の運転ミスを認めず、自動車のブレーキが故障していたことを主張していました。

 このような被疑者・被告人の態度が、被害者遺族を苦しめた点は否定できません。

 これに対して、報道番組やインターネット上では、被疑者・被告人は嘘をついている、早く罪を認めて謝罪するべきだ、という批判がなされました。

(2). 被疑者・被告人は嘘をついていたのか?

 まず、被疑者・被告人は嘘をついているのでしょうか。

 確かに、被疑者・被告人が自らの運転ミスを認識していたにもかかわらず、そのことを隠すために、自動車の故障をでっち上げたというのであれば、これは紛れもなく虚偽の主張であって、決して許されるものではありません(なお、厳密に言えば、被告人自身は偽証罪(刑法169条)に問われるわけではありませんが、それでも、裁判という場で虚偽の主張をするというのは司法作用を妨害するものであり、決して正当化されるべきではありません)。

 しかし、他方で、自らに運転ミスの認識・自覚がなく、真摯に自動車の故障が原因であると信じていたという場合はどうでしょうか。被告人は自動車の故障が事故原因だと信じ、それに基づいて、自動車の故障による事故だったと主張したのですから、被告人は決して虚偽の主張をしているわけではありません。仮に、自動車の故障がなかったとしても、それは虚偽の主張をしているのではなく、主張した内容が「真実」ではなかったということに過ぎません

 本当に被告人が自動車の故障が原因であると信じていたという可能性も想定し得るにもかかわらず、頭ごなしに被告人は虚偽の主張をしていると決めてかかるのは、私としては論理の飛躍があるように思います。

(3). 供述の信用性という視点

 他方で、被疑者の主張する事実が信用の置けるものかどうかという点から考えていく可能性はあります。自動車が故障しているということが実際にはあり得るのか、もしあり得ないのだとすれば、被告人の主張は「真実」ではないのではないか、すなわち、被告人の主張は信用性に欠ける、ということです

 この点については、まず、事件車両を製造したトヨタ自動車が車両には異常がなかったとするコメントを出しているという点を指摘することができます。

 また、仮に、自動車に異常があるとすると、全国で事故のあった機種と同機種の自動車で事故が起きていてもおかしくなく、加えて、自動車の安全性に問題があるという場合、特に本件のように死亡事故を起こす危険性があるということであれば、直ちに全国でリコール(製品回収)をしなければならないということにもなりかねません。自動車の安全性に問題があるということはそれほどシビアな問題であり、そうであるからこそ、自動車が故障していることは「そうあることではない」、つまり、被告人の主張する事実は(必ずしも虚偽であるとは限らないものの、)真実ではない可能性が高いのではないかという議論は成り立つと思います(おそらく、被告人が虚偽だと批判している方の見解もこのようなものとして理解できるのではないでしょうか)。

 もちろん、実際の裁判では、およそ自動車の故障が想定し得るかという抽象的なレベルではなく、実際の事故車両に本当に故障があったのかという点が問われることになります。ここからは想像ですが、そこで、証拠として、事故車両や事故現場の実況見分調書などが取り調べられることになるのです。

 被告人の主張が虚偽であると決めつけて一方的に被告人を非難するのではなく、虚偽であるかどうかは置いておくとしても、被告人の主張が信用できるものかどうかについては疑わしい点がある、という形で議論をすべきではなかったかと私は思います

(4). 被害者遺族のために被告人は潔く罪を認めるべき?

 もう一つ、被害者遺族のためにも被告人が罪を認めるべきだという批判も根強くなされたところです。確かに、被害者遺族の視点からすると、被告人がいつまでも罪を認めないことで、精神的なストレスを負い続けることになります。実際、被害者の遺族の方が何度も会見や法廷の場で、被告人に対して早急に罪を認めるよう述べている姿は心が痛みました。被告人が罪を認めれば、この方は、少しかもしれないけれど気持ちが楽になるのではないかと何度も思いました。そういう意味で、私自身も、感情論としては被告人に早く罪を認めてほしいと思う部分はあります

 実際に、被告人が虚偽の主張をしているのであれば、被告人はそのような虚偽の主張をやめて、直ちに罪を認めるべきです。しかし、上で述べたように、被告人の主張が必ずしも虚偽であるとは限らないのです。

 裁判の場で当事者が自らの思ったことを述べることができないことは、それはそれで問題があります。適正手続の下で裁判を受ける権利は日本国憲法が保障する極めて重要な権利です(憲法31条、32条)。仮に、世論による大バッシングに迎合して、自らが思っていない(認識していない)主張を強制されるとすれば、憲法上の権利が侵害されているということになりかねません

 例えば、「ある者」によって、自らの経験した事実に反する主張を裁判の場で強制されるとすれば、誰しもが問題だと感じるでしょう。ここでの「ある者」が世論に置き換わっただけ、と捉えることはできないでしょうか。

 反省の意を示すことと、やってもいないこと(より正確に言えば、やっていないと認識していること)を認めることとは違います。

 被害者や被害者遺族が、被告人に対して、早く罪を認めるように述べることは当然のことです。その反面、大多数の「世論」が、被告人に対して、罪を認めるように迫ったときには、恐ろしい事態が生じることのではないか。理性の部分では、報道機関やネット上の声が揃いも揃って潔く罪を認めるように迫っていることに対して、危機感を感じることがあります

4. 最後に

 池袋暴走事故は大変痛ましい事件です。私自身、被告人を擁護するという意図があるわけでは決してありません。

 ただ、大変ショッキングな事件だからこそ、どうしても感情が先行して、危険な方向に議論が進んでいっていないかと危惧しているところでもあります。

 被害者や被害者遺族の視点は非常に重要です。むしろ、これまでの裁判ではこのような視点が欠如していた面があり、司法の場として反省をしてきたという過去があります。今なお不十分かもしれません。しかし、同時に、裁判の当事者となる被告人の側の視点を持つことを否定してはいけません。やや難しい言い方をすれば、刑罰は最も過酷な国家権力の行使にほかならないため、その対象となる被告人という存在を忘れ去ってはいけないということです。

 もちろんそれは、被告人を全面的に擁護することを意味するものではありません。ただ、被告人の側の視点を少しでも持つことで、議論が暴走することを食い止めることができるのではないかということです。

 様々な意見はあるかと思いますが、この事件をめぐる報道の在り方やインターネット上の反応についてはやや問題がある点が少なくなかったと思います。時に、議論が暴走しているのではないか、とも思いました。

 今後、被告人が控訴するかどうかはまだ分かりませんが、痛ましい事件であるからこそ、今後の経過についても感情的にではなく、冷静に見守っていく必要があるのだと思います。

 人が亡くなっている事件について、ここまでのことを書くというのは躊躇もありましたが、感情的にならず、冷静に議論していくことで、むしろ痛ましい事件が繰り返されることを回避できるのではないかとも思い、ここに書き留めておくこととしました。今回の事件を報道等で目にしていた方が、また少し別の角度から考えるきっかけにしていただけでば幸いです。

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