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19食

食は喜(よろこ)びであり

凄惨(せいさん)である

 

捕食者と餌

立場の違いで

現実は

真逆となる

 

解説要約)

食することによって

命を保つものたちは

食するものと

食われるものとに

分かたれる

 

解説)

餌とされる生命に

いらぬ苦しみを

与えぬこと

苦しみ無きように見える

植物、果物などの生命とても

生きた細胞を、そのまま

あるいは調理して食するものであり

むやみに命を奪わぬ事

この意味において

精進には価値がある

また生と直結した行として

食に意味がある

 

人は食によってのみ

心身を健全に保てる

食事の準備から片付け

その作法まで

生そのものである

食材は命そのものであり

食される命によってのみ

生ある命は支えられる

 

肉食(にくじき)は類人猿では

人間とチンパンジーから始まった

とされる

肉食を選んだ種は脳を発達させ、

その一部は慈悲、悲を観じ

肉食を抑制する事となった

だがその悲を生み出した脳は

肉食のおかげであった

悲は判る

だがいかなる肉食も

否(いな)とすべきか

 

ジャータカにうさぎが捨身して

わが身を捧げる話がある

(話としてはバリエーションあり

 捨身したうさぎは月にいる)

 

旅の僧に自らの焚火に捨身して

己が身体を肉として提供した

うさぎは食されることなく

打ち捨てられるべきではない

その肉は食されるべきものである

一方、食物化される生き物(動物、植物問わず)は

自分の意志で捨身したわけではない

殺されて食物とされたものである

殺されるものは決して

自ら命を差し出したわけではない

しかし死して後は

その身体を食される事に

異を唱えることはない

殺し、食物化する捕食者は

殺害した命を敬(うやま)い

食(しょく)する事によってのみ

貴(たっと)しとされる

 

お釈迦さまが亡くなる前に

食されたと云(い)われる豚肉(お釈迦さまの食中毒原因とされる「スーカラ・マッダヴァ」スーカラは野豚。キノコではという説もある。)は

供養されたものであり

すでに食されるべきものとして

提供された

だからこそお釈迦さまは

それを食されたのであろう

お釈迦さまの時代、肉食(にくじき)は禁忌では

なかったとされる

肉食(にくじき)は出来ぬとは

おっしゃらなかったのである

 

かつては自ら生き物の命を奪い食するものは

自らの手でその命を奪い、

敬い、手を合わせ、

食したものである

殺害の現実は眼前にあった

だが近代における分業は

命を奪う現場と食の場を分離した

その分離された現実において食、

すなわち殺害を貴しと、

認識できるものは想像力以外にない

殺されるものの事に想いをいたし、

その死を尊(たっと)み、貴(とうと)しとして、

ありがたくいただく事

そしてさらに殺されるまでの

生きていく過程をより

生き物として尊重し、

健康に一生を送れるように

配慮すること

いらぬ苦しみを与えぬ事

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