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21実感

「一即多多即一」などといった

同一性実感は

Fictionではない

 

解説要約)

無明が存在すると

実感するものには

同一性実感は

存在する

悟りが存在すると

実感するものには

同一性実感は

存在する

 

お釈迦さまは

そう実感したのでは

なかったか

 

解説)

「あると信じる人にはあるが、

 ないと思う人にはない」

と言った事とは別物

信じる人にのみ存在する

とした実感とは異なり

「一即多多即一」などといった

同一性実感や

悟りは

いつでも

だれにでも

存在する

 

これは古(いにしえ)の人たちが

歴史的に積み上げてきた

事実である

 

数多(あまた)の経典や

公案で議論される

悟りが

単にFictionであり

虚妄であるなら

それら経典の類(たぐい)は

打ち捨てられるべき

反故(ほご)に過ぎぬ

 

信じるものにのみ

存在するとする者には

悟りの存在は

理解不能である

 

信じる事の出来ぬものにも

無明も

悟りも

同一性も

存在する

それが存在の意味である

 

さて数多(あまた)の

仏典や芸術は

人(ひと)だけが

記し、表現された

ものなのか

 

無明も悟りも

直接、目に見える形で

取り出して提示する事は

出来ない

だがそういうものが存在する

として世界を俯瞰(ふかん)すると

悟りも同一性も

多様性も

素直に理解できる

それが存在根拠となる

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