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「アイドリッシュセブンは現実」を問いかける ――非日常から日常へ、愛から挑戦へ、進化していく”浮世”へ

What’s NON FICITION?

記憶に新しいこの言葉からはや3ヶ月。アプリゲーム「アイドリッシュセブン」は新たなステージを刻み始めた。

”CROSSING×US”
現実と虚構の交差点。コンテンツが平面上の横断だけではなく、次元を超えた横断をする時代、アイドリッシュセブンは果敢にもそんなキャッチコピーを掲げてきた。そうして、それに恥じない企画が生まれた。

LEGENDAコラボ


DHCコラボ

Re:vale MV先行カット

再三このnoteではアイドリッシュセブンがいかに現実に溶け込んでいくかという記事を書いてきた。運営が仕掛ける術中にはまり、日々次はどんな驚きがあるのだろうとドキドキワクワクさせてくれるアイドリッシュセブンというコンテンツ。
もう踊らされっぱなしである。ストーリーも4部の佳境を迎えており、しがないサラリーマンの月一の楽しみといえばストーリー配信くらいである。

さて今回のDHCコラボ。

今年の2月に発表されたコラボ商品の第二弾なのか~~~などと思った私に今回これ。

え?タイアップ????なにを言っているんだ??????????

どういうこともなにもない。タイアップだ。タイアップ。思わずネットで単語を調べてしまった。

タイアップ:
音楽業界においては、レコード会社はアーティストの売り上げを上げるため、その曲の知名度を上げることを目的としてタイアップを使う。主にCMソングやテレビ番組、さらには映画の主題歌などに使われる例がある。映像と音楽は融合しやすく、その音楽を聞く/映像を観ると、思い出されるというように双方の相乗効果をもたらすことも期待できる。
(引用:Wikipedia「タイアップ」)

如何に私に知識がなくてもタイアップはわかる。「今度のDHCのCMソング、IDOLiSH7がやるんだよ~~!!!!!!」ってやつだ。「DHCのCMってアイナナが歌ってるんだよ~~!!!!!」ってやつだ。知ってるぞ1!!!!!

しかも今回は俳優さんがショートムービーをするという。
なるほど????
IDOLiSH7がショートムービーに出演はしないらしく、「歌:IDOLiDH7」ってことだ。

へえ~~~????????出演しないけど曲がアイナナなんだ~~~?!?!
もう何が言いたいかはお分かりだろう。

今回もこれだ。
「アイドリッシュセブンは現実…」

ネットニュースでまでそんなことを言われたのでオタクびっくりしちゃった…

アイドリッシュセブンに限らず、いま二次元コンテンツではこの「現実」という単語が頻出である。この言葉、何気なくオタクであれば使うのだが、さてここに込められた意味とはどういったものになるんだろうか。
「現実」って、いったいなんなのだろう?
そんなわけで今回も「いいアイナナの日」にふさわしい(?)幻覚つよめのnoteになります。
※毎度毎度言っていますがこれは拗らせたアイナナオタクの主語が大きめの記事です※


現実感を持ち始める二次元アイドル

散々言ってきたことだが、どうしてこうもアイドリッシュセブンに現実感を感じさせられるのか。2019/11/17の0:00に公開されたRevaleのMV先行カット、あれは新高輪ゲートウェイ駅を題材にしている。しかも新高輪ゲートウェイ駅、2019/11/16に一般公開されたばかりだという。これを受けて、アイナナオタクたちは口ぐちに「現実で未公開だった新高輪ゲートウェイ駅をMVにしたってそれはもう本当にRevaleしかできないじゃん…なんなの…なんでそんな現実にいるの…」と言っていた。

つい先日、とあるj系グループのはなしを職場でしていた。なんとまあ話しやすいこと、市民権があるというのはこういうことなんだろう。
二次元アイドルにハマってますといって簡単にへーそうなんだと受け止める人が何人いるんだろうか。そうそう簡単に職場で口にできる話題ではない。
多少ゲームに造詣がある人であれば、よかったらやってみてと勧めることもできるかもしれないけど、私の推しアイドルは二次元なんですなどちょっと周りの、アニメを見ないような、ゲームもしないような人たちには言いにくい。(もしかしたら私の周りだけかもしれないけど)
なぜか?
答えは見えている。アイドリッシュセブンは「虚構」だからだ。
データ上にしか存在しえないアイドルたちだからだ。
それを「実在するんですよ」と普通の人に言ったところで、何か妄想か幻覚を見ている人ではないかと疑われてしまう。
それがわかっているからこそ、私たちは「アイドリッシュセブンは現実なんだ…」と言い続ける。現実じゃないと誰よりもわかっているから、ライブやPVや取り組みの細かな愛を拾い上げて「これこれこういうところが現実~~~!!!!」っていうのだと思う。
(これはでも本当に現実味を持たせる取り組みをしている制作陣の細かな心配りのたまものだとおもう。人間が作りだす熱量と手垢のついた仕事は愛でしかない)

だから、今回のDHCで「楽曲提供」というスタンスを取った。
ビジュアルが出ないという状況であれば「なんだ二次元か」という先入観から抜け出すことができる。
これはなんだか不思議な感覚なのだけど、キャラクターとして歌っている歌であってもキャラクターが見えなければ一瞬二次元コンテンツから発生したものを忘れてしまう。
れっきとした二次元コンテンツであるIDOLiSH7の楽曲が「なんだこの曲、どっかのアイドルの曲かな」くらいの感覚になってしまう。
こうなると、「二次元と三次元が溶け合っている」と言わざるを得なくなる。「いやアイナナ現実にいたわ」という錯覚を覚えるのだ。

風景として溶け込んでいく二次元アイドル

話は変わるが私の家からは富士山が見える。
ふとこの記事を書きながら外の富士山を眺めていて、唐突に思った。

アイドリッシュセブンのこういう取り組みって葛飾北斎の描いた「富岳三十六景 神奈川沖浪裏」みたいだな、と。

緻密な計算のもとに描かれた波、船を飲み込まんばかりの大波のむこうにはちいさく富士山が見える。手前にあれだけ大きな波が描かれている背景にぽつんと書かれた富士山。どれだけ荒れ狂う中でも静かに、富士は鎮座している名画だ。
富岳三十六景はおおきく富士山を描いたものから、風景の一つとして富士山が描かれている様まで非常に多くの「富士山」を描き出している。決して富士山がメインになる作品ばかりではなく、遠くにそっと見える富士山画というものも多くある。そうやって北斎は日本の生活のなかに溶け込んでいる富士を描いていた。

アイドリッシュセブンが目指すのはこういうことなのではないか。
アプリゲーム、アニメといったコンテンツそのものがメインに据えられている物語としての側面の一方、今回のDHCタイアップのように広告のなかにそっと紛れ込んでいく動き。
どちらか一方だけでは、アイドリッシュセブンの現実性には結びつかない。単にメインをドーンと描くことで富士山の美しさだけを際出せるように、アイドリッシュセブンの物語”だけ”を重厚に描くのであれば、こんな深みが生まれてはおらず、ただよくできた作品だなあと思うだけなのだ。
そこで実在しているアイドルのように「広告タイアップ」という手法を取り入れることで、アイドリッシュセブンそれ自体をメインに据えることなく彼らを現実へと溶け込ませている。北斎が富士を遠景として「在る」描写をしたように、アイドリッシュセブンもまた、楽曲のみの提供として「在る」描写をしている。
メインではなくサブとして活用されることで際立つことでより現実に彼らを馴染ませていっている。


「アイナナは現実」ーーフィクションとノンフィクションの選択の中で

「現実」という話をするのであれば「非現実」ということは何かを考えねばならない。これまでアイドリッシュセブンは現実!という話をしてきたが、ここでいちど現実の意味を問いかけたいと思う。

我々は何をもって「現実」を認識するのか。

難しい話であると思う。
目に見えているものが現実というのであれば、アイドリッシュセブンはまぎれもなく「現実」だ。
実在しているものが現実であるというのであれば、アイドリッシュセブンは疑いようなく「非現実」だ。

アイドリッシュセブンを現実と取るか、フィクションの物語と取るかはユーザーに委ねられている。運営陣から感じられるアイドリッシュセブンへの愛は、愛以上に挑戦を孕んでいる。人間という熱量が、アイドルたち一人ひとりを輝かせる作業に他ならない。
彼らはいつでもアイドリッシュセブンがアイドルとしてどう在るべきかを語りかけてくれる。そういうコンテンツを作ってくれることに、常に最大の敬意を評している。

ここまで書いておいて今更なのだけど、現実なんていうものは、常に曖昧で、個々の人間の主観でしかない。
現実だという人間もいれば、よくできた作り話という人もいる。
そういうことなのだ。いくら富士山を綺麗に描いたってやっぱり本物には叶わないという人だっている。いやあれだけ富士山を現実とまごうばかりに描けるのはそれ自体に価値があるという人もいる。
結局はその作品が本物か、作り物か決めるのはユーザーの心の一つでしかないのだ。
先のRe:valeのPVの話にしたって、「現実じゃないから実現できたこと」なのだ。
いかに現実に近づけるか、という取り組みの一方で「現実じゃないからこそできること」が絶妙なバランスで組み込まれている。これはアイドリッシュセブンが二次元のコンテンツであるからこそなせる業なのだ。
日常へと溶け込んでいく「実在感」と、現実では到底できない要素の「非実在感」が混在しており、ユーザーが現実か非現実であるかの選択の余地を与えてくれている。
これは現実ですよと押し付けてくるわけではない。現実であると押し付けるのは、虚構であることの裏付けともいえるからだ。
日常へと寄り添わせること、馴染ませること、それらのさりげなさと、毛細血管の端の端まで施された情報提示により、いつの間にかそこにあるものとして存在感を示している。

アイドリッシュセブンが単なる作り話の良い読み物だと思うのであれば、それでもいいと思う。だけど運営はきっとそこで止まりはしない。
二次元と三次元の境界がゆっくりと溶け出していくエンターテイメントの中で、彼らの在り方がスタンダードになることを夢見て、虹を超えていく。その挑戦をしている人たちなのだ。
アイドリッシュセブンははっきりと「アイドルを生み出す」と言い切ったプロデューサーが作り出す浮世絵だ。誰もが手軽に、何の気負いもなく楽しめる娯楽文化であればあるほど、広がっていく世界がある。
見たこともない世界がそこには広がっている。二次元や三次元といったものを越え、「アイドリッシュセブン」が描き出す世界は、平面であるのに静と動、遠近、濃淡、奥行きが見えてくる。

北斎が描いた富岳三十六景は"ジャポニズム"という形で世界に大きな影響を与えたという。DHCタイアップ楽曲であるIDOLiSH7の”ハツコイリズム”が、そういった影響力になっていくことを、アイナナオタクの私は夢見てしまうのだ。

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