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読書の記録 6月

読書
2023年は月に二冊ずつ読もう。それで何かしら感想を書き残そう。

6月

①鮨 岡本かの子

かの子が母親であったこと、かの子の実家が没落して以降かの子が宗教に傾倒していった事実などを踏まえて本作を読むと、湊の語った母親とのエピソードや湊の裕福だった家が潰れるという顛末にはかの子自身の姿が投影されているように感じた。ともよの両親の夫婦関係と湊の両親の夫婦関係が共に芳しくない様子で描かれている点も、かの子の夫との関係が良好で無かったことを思い起こさざるを得ない。
筆者は鮨について「鮨というものの生む甲斐々々しいまめやかな雰囲気、そこへ人がいくら耽り込んでも、擾れるようなことはない。万事が手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う。」と語っているから、湊の母親が家で握って湊に与えられる程には庶民的で手軽なものだったことが窺える。職人は「まめやかに」かつ「甲斐甲斐しく」鮨を握るが、食べる側にとっては「耽り込んでも、擾れるようなことはない」程度のものであるというのだ。「手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う。」という描写にも現代の感覚からすればやや違和感を憶える。筆者がタイトルにまでした「鮨」という物語の中で語りたかったことは、「手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う」ようなライトなことだったのであろうか。作品末にあるともよの「鮨屋は何処にでもあるんだもの――」というセリフは、鮨という庶民的でありふれた物によって引き寄せられたともよと湊の出会いの偶発性と、そうした偶発を内包している生活こそが自然なのだ、というフィクションの中のリアリティを担保するかの子なりの仕掛けであろうかと思った。

② きりぎりす 太宰治

女が一方的に語る手紙のような体をとっているため、女の語る内容には書かれている内容が以前実際に起こったことである、というリアリティが自ずと付与されている。冒頭、時折差し込まれる「お笑いになっては、いけません。」は、手紙の中の回想と手紙を読んでいる現実とを行き来するためのレトリックだと感じた。独白は一方的で、読み手の主観的な物言いやテンポの良い文体も噛み合い次第に書き手が過剰に旦那を期待し、それに裏切られて不平不満を言うわがままな人物に感じられてくる。過度に自分を悲劇のヒロインに仕立てようとしているとすら感じる。
また太宰は作中の旦那と同じく表現者であるため読み手が彼と太宰とを重ねて読むのは自然である。そうであるならば、語り手である妻を通して自身の創作活動の姿勢、或いは売れっ子作家への恨みつらみを書いたと考えるのは自然に思われる。
後半では「されたこと」ばかりが目に付くどこまでも受動的な女に嫌気がさしてしまった。旦那の姿勢や態度にばかり言及して見初めたはずの作品には言及しないところを見ると、女に審美眼などは最初から備わっていなかったのではないかと感じた。芸術の世界では「世間的に売れることを良しとしない」層が絶対数存在することを描いた、つまり太宰のやっていることを揶揄する連中(ここでは女)を返って滑稽に描く太宰の技術かとさえ思った。

③魚服記 太宰治

物語全体を覆うどこか怪しげな印象は、山間の湿気が高くじめじめとした情景とどことなくマッチしていた。足を滑らせて滝へ落ちた大学生を見たスワはそれまでの伝統的な家父長制に生きる受動的な女性としての生き方を見直す契機となったのかと感じた。滝の形に注意したり、八郎と三郎の話の追憶に耽り、父親に「おめえ、なにしに生きでるば」というのが彼女が自分の存在に思いを巡らせている場面である。15歳の思春期に特有の心の動きかとも感じられた。
父が炭を売りに行って帰ってくる日、スワは「めずらしくきょうは髪をゆって」いた。髪を結う行為は女性らしさを脚色するような描写に読み取れ、その後に起こる父親からの強姦という凄惨な出来事を予感させるような描写にも感じられた。自分の性、或いは存在について意識しうる年代の少女と、その彼女が大蛇となって自然に還っていくことは、当時の封建的な社会での女性の生きづらさが反映するのかと考えたりした。

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