心のもやもやを”四畳半エピソード”と呼ぶことにした
なんだか最近無性にもやもやすることが多い。
一か月ほど続く在宅ワークで人に会う機会が減っているからなのか、気晴らしがないからなのか、それとも今の現状は全然関係ないのか、それはわたしにもわからない。
でも、コロナ前よりも明らかにスローな毎日を過ごしていて、自分と向き合う時間が増えたことで、いつもならば気にも留めなかった心のサインに気が付きやすくなっているというのはある気がする。
とにかく、だ。そんなこともありちいさなもやもやが心の中を占拠してくる瞬間が近頃やたらと多いのだ。
そういう時わたしは決まって信頼できる友達にこんな調子でLINEをする。
彼は、もやっとした事柄に”四畳半エピソード”という名前をつけてくれたセンスのあるベストフレンドだ。
愚痴を聞くよ、とか
なんでも話してといわれても相手を頼るって難しい。
それに、愚痴を話している自分ってどうしても醜い人間のように思ってしまう。
あと普通に 愚痴 って漢字、なんかこわい。笑 書けもしない。笑
そういう時になにげなく言ってくれたであろう
四畳半エピソード というネーミングによって救われたのだ。
人の優しさってこういうときにあらわれるよね。
私が指す”心のもやもや”は、例えるなら洋服についちゃったカレーの染みみたいなイメージ。
普通にカレーをおいしくたべて、それが洋服に飛んだとして、気が付かなければ多分一生気が付かない、もしくは忘れたころに『あっ!』って”ヤツ”を発見して、軽くショックを受けるくらい。
問題は、そのカレーを食べてる途中に飛ばしちゃったことに気が付いたとき。その時のダメージが一番大きい(笑)
なんとかなりそうで、割となんともならないし。けど、気がついちゃったからには気になるし。でも別にそれで死ぬことはない。
スルーしたければすればいいって話なのだけど、結局これから先もその染みがついた洋服と共に生きて行かないといけないのは自分。だったら対応できるのならばした方がいいわけで。
けど、洗ったりクリーニングに持っていったり、なんかそこからの色々を考えると全部めんどくさくなる(考えすぎ)。
気がついたのはラッキーなことなのに、気が付かなければ楽だったのになーなんて気持ちになることもある。
もやもやというのはそういうほんの些細だけれど、心に影を落とす厄介なものなのだ。
だから必要以上にそれと向き合うのは正直コスパは良くない。
流せるくらいの器の大きさが欲しいもんだと自分自身思うし、もやもやそのものより、それにより振り回されてる自分が嫌になる時もよくある。
でも、『四畳半エピソード』という名前がついたことで、なんか抱え込んでた重たいものが一気に軽くなった気がした。
言葉って不思議だ。
それと同時にすごいなと思った。
日々、もやもやすることはおこる。
こちらが求めてなくてもそれらは唐突にやってくるし、避けたくても避けようもない場合も多い。生きてる限り大なり小なり付きまとってくるものだと思っている。
でも、そういうときには”また四畳半エピソードが溜まってしまったな”くらいの心持ちでいれるようになった。
心の狭い自分は好きじゃない。
でもなんか『愚痴』とか『弱音』とかのジャンルじゃなくて、平和でネタっぽい響きの『四畳半エピソード』とカテゴライズすると、ちょっと愛しくて、なんだか笑えてくる。
同じ意味なのに、言葉によって印象は変わる。
都合がいいかもしれないし、逃げっぽいかもしれない。
でも
例えば
18時以降食べないダイエット
と
18時まで食べてOKなダイエット
意味は一緒だけど、後者の方が楽そうだし、続きそう。
そういう感じ。そういうのでいいんだと思う。
都合よくてOK。自分の解釈上等。
響きやイメージが変わるだけで向き合い方を変えられることも多い。
人間だけが使いこなせる言葉という武器を使わない手はないのだと思う。
もやもやの事柄を四畳半エピソードと名付けたからといって、実際問題が解決しているわけじゃない。
結局、問題の本質はまた別なところにあるけれど、一生不定期に表れるもやもやと付き合っていくしかないのなら、こうやってゆるやかに付き合って行けたほうがいいじゃないかということだ。これはきっとなんにでもいえるし応用できる。
真面目に向き合って苦しくなるくらいならそれくらいでいいよ。
きっとまた四畳半エピソードは起こる。というか常に起きている。
そしたらわたしはまた彼にそのことを話すんだと思う。
いつもありがとう、ちょっとごめんね。
でも名付け親としてこれからもお付き合いください。(笑)
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