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世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 - 霊峰 岩木山を望む 大森勝山遺跡

青森県の縄文旅、いよいよ最後の5遺跡目は大森勝山遺跡
200年かけて作られたストーンサークルを中心とする遺跡です。

岩木山と一体になれる

青森県弘前市の中心市街地から北西15㎞に位置する大森勝山遺跡
青森県の最高峰 岩木山(標高1,625m)に抱かれるように作られた、今から約3,000年前の環状列石(ストーンサークル)を中心とする遺跡です。

内版の地図、左上に小さく描かれているのが岩木山です。
この遺跡が岩木山に向かって作られていることがわかります。

標高130~150mの台地の両側には、岩木山を源流とする川の流れがあり、縄文人の好む〝小さな川に近い低い台地〟であることがわかります。
ストーンサークルは遺跡の中央付近に位置しています。

岩木山は津軽富士とも呼ばれ、富士山と同様に古くから山岳信仰の対象とされてきました。
今でも岩木山へ集団登拝する「お山参詣」・「ヤマカゲ」と呼ばれる行事があり、重要無形民俗文化財となっているそうです。

大森勝山遺跡は、昭和30年代にストーンサークルと竪穴住居が発見され、その約半世紀後の調査で捨て場や石組炉があることがわかった遺跡です。それらは保護のため埋め戻され、現在はレプリカで再現されています。

入口から暫くは、林の中の緩やかなを道が続きます。
ここからは全く岩木山は見えないのですが、

林を抜けると、そこには岩木山を独り占めできる「人工物が一切ない景観」が広がっています。

この絶景の台地は自然にあったものではなく、縄文人の手によって地面を土手状にする「大規模な土木工事」で作られたものです。

まさに岩木山を望むために作られた台地からは、「冬至の日」には山頂に沈む夕日が見えるそうです。

縄文時代晩期前半

そして台地の上に作られたストーンサークルは、最大直径48,5mの楕円形で、77基の組石(石のグループ)からなる総数約1.200個の石で作られています。

このストーンサークルに用いられた石は、岩木山の噴火によって産出された安山岩約1,100個の他、遺跡から約17㎞離れた河川から採取された花崗岩などが使われています。

ガイドさんの説明では、角ばったものは近くで採れた石で、丸い石は川に流され角が取れた石であり、その形からどの辺りから採取した石であるか分かるそうです。


200年かけて作られたストーンサークル

直径が50m近い大きなストーンサークルは、実は長い年月をかけて作られました。
ここにある一つ一つの組石は、縄文時代晩期初頭から実に約200年をかけて配置され、最終的に環状の形になったと考えられています。

そして200年という長い年月が、石の置き方に変化を生じさせたようで、幾つかの「組石の種類」が確認できます。

平たく大きな石が並ぶ組石

細かい石を集めた組石、細長い石が揃って並ぶ組石

丸く環状に並べられた組石

大きな石があれば、小さな石もあり、形も様々

組石を一つ一つ見ているだけで面白い!


これらの組石が77基集まってできたストーンサークル

「岩木山に向かって大きなモニュメントを作る」

この壮大な計画が粛々と進められ、ようやく200年かけて完成に至ったのです。

このことは、この時代の人々の精神文化が、私達の想像以上に豊かであったことを証明しているように感じます。

屋外炉と大型住居はコミュニティの場?

こちらは直径1mの円を描く「石組の炉」で、ストーンサークルの周辺から3カ所見つかっています。ここには住居の跡は確認できていないので、屋外の「炉」として使われていたようです。

ストーンサークルから100m離れた場所には「住居跡」があります。
住居は直径13mのほぼ円形で、直径20~40㎝の4本の柱を地面を1m以上掘って立て、中央には「石組の炉」が設けられました。

住居跡は一棟のみで、しかもとても大きいことから、「集会所」のような役割をしていたと考えられています。

「屋外炉」や「炉のある大型住居」は、
人々が周辺の集落から祭祀のために集まった時の「コミュニティの場所」であったと想像できるようです。
また少し離れた場所の「捨て場」からは、土器や石器などが大量に見つかっていることも、祭祀と関係があるのかもしれません。

墓の跡が見えないストーンサークル

このストーンサークルの特徴の一つは、「墓を持っていない」ことです。

ストーンサークルは、この大森勝山遺跡より1,000年ほど早い時代(縄文時代後期)に東日本で多く作らましたが、墓の上にストーンサークルが作られたり、ストーンサークルの内外に墓があるというのが一般的です。

しかし、このストーンサークルの下や周辺には、土壙墓や石棺墓などの縄文時代の一般的な「墓がない」のです。

しかしながら周囲では「土器埋設遺構」と呼ばれる、深鉢土器が発見されています。これは土器が上を向いてそのまま埋められて、その中から動物の骨と同じ成分が付着していることがわかっているものです。

周辺の遺跡では「土器そのものが墓である」事例もあることから、これが大森勝山遺跡の墓であった可能性も考えられています。

遺跡の脇の岩木山からの水の流れ、このような場所から石を一つ一つ運び出し、組石を作った縄文人。

200年間、どんな時に組石を作り、どのような思いを持って作り続けたのでしょうか?

帰途、一面に広がるリンゴ畑では収穫がおこなわれていました。
太陽のような赤、ちょっとピンクがかった赤、深く濃い赤、そして黄色といくつもの種類のリンゴが実っています。
収穫が終わるころには、雪が降り積もる季節を迎えます。

世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 -
5遺跡を廻った青森縄文旅、各遺跡ごとの様子をお伝えしてきましたが、青森に広がる縄文の景色を少し感じとっていただけたでしょうか。
これからも「青森の縄文」を少しづつお伝え出来たらと思っています。

◆参考資料
世界遺産になった縄文遺跡 岡田康博(編) (株)同成社
縄文時代史 勅使川原彰 (株)新泉社

最後までお読よみいただき有難うございました☆彡

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