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その先はかぐや姫の世界だった

Google Mapで縄文遺跡を検索していると、川崎市中原区に神庭かにわ遺跡という気になる名前の遺跡を発見しました。
その周辺には神庭かにわという名のついた場所は見当たらないので、どうやら地名とは関係なさそうです。
そうであれば、神々しい名が付けられている遺跡は果たして‥!?ということで早速出かけてきました。

多摩川から西に約3キロに位置する矢上川沿いの住宅の間を抜けると、突然急こう配の山林が現れました。どうやらここらしいです。

「神庭緑地保全地区」の標識がたっています。

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案内図には古墳の表示があるものの、〝縄文〟の文字は見当たりません。
縄文遺跡であるはずなのですが‥いつものパターンでしょうか。
地図上や市町村の情報ではきちんと表記のある「縄文遺跡」が実際には何の痕跡もなかった‥ということがよくあるのです。

その案内図の隣のボックスには何本もの「竹」が立てられています。
なんだろう?とよく見てみると、
「階段上り下り用 杖」
自由にお使いください。

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え、え!これは、あの富士山に登るときに使う金剛杖と同じ?
そんなに険しい道なの?確かに目の前には急な階段。
一瞬躊躇しましたが、ここまで来たのだから行くしかない、と心を決め、やや太めの竹を手に取り階段を上りはじめます。

前日の雨で少しぬかるんでいる急な階段。竹の手すりは手にしている竹の杖と同じ太さです。
少し先に小さな踊り場が見えるので、そこまで頑張ろう一歩一歩恐々進みます。

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踊り場で小休止。これが必死にのぼってきた階段です。
あと、もう少しと前だけ見て登ります。

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ほどなく、無事頂上に到着しました。
あの急な階段が嘘のように、広々した落ち葉の広場が広がっています。
眼下には約15キロ先の東京タワーが微かに見えます。
こうしてみると、この場所から北東方向に広がる都内は、ほとんど起伏のない平坦な場所であることが分かります。

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古墳跡のようですが、何の表示もありません。
このような古墳跡と思われる盛り上がった場所が三か所。あとは落ち葉の広場とかしています。

広場の西側は斜面になっていて竹林になっているようです。
なんやら門のようなものが見えます
「解放中」と掲げられた門でした。早速くぐります。

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竹林の中へ階段で下りていきます。
立派な竹で太陽が阻まれて、少し薄暗くヒンヤリしています。

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竹林は四方を竹に囲まれた、すり鉢状になっています。
まるで平安時代の「竹取物語」かぐや姫の世界です。
しーんと静まった空間の竹林に一人佇み、暫し時間を忘れます。
ちょっと神秘的な空間です。

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階段を降り切ると小さな平坦地があり、対角線上に階段がありそこを上ると竹林から抜けていました。

不思議な体験をしたような少しぼーっとした感覚のままま、再び周辺を歩き縄文遺跡の痕跡を探しますが、結局、見つけることは出来ませんでした。

川崎市のH.Pによると、縄文時代中期から古墳時代にかけて大規模な住居があったようです。

神庭遺跡 縄文時代中期(約4500年前)が41軒以上、弥生時代後期(約1700~2000年前)が93軒以上、古墳時代のもの44軒以上、という合計185軒をこえる膨大な数の住居跡が発掘されました。
 縄文時代の住居は、径が5m前後の円形、隅の丸い方形、五角形、六角形など、形が異なっていますが、これらは時期差を示しているものと思われます。その分布は、台地の縁にそって見つかっており、中央部分が広場となるこの時期の典型的な馬蹄形(ばていけい)集落をなしていました。
川崎市教育委員会H.Pより抜粋

多摩川からほど近いこの辺りには、ここ以外にも縄文や弥生時代の貝塚や古墳などが数件確認されています。
縄文時代には今よりももっと海が近かったことで、食料にことかかない地域であったと思われます。
また〝暴れ川〟とも言われた多摩川の度重なる氾濫で川の流れが変わったことで、肥沃な土壌を生み農耕にも適していたと考えられます。
かつて長きに渡り人々の営みがあったこの場所は、きっと多くの人が祈りをささげた場所でもあるのです。〝神の庭〟はそのようなことにも関係があるのかもしれません。

今回は残念ながら縄文遺跡を確認することができず、神庭かにわの名前の由来に繋がるものも見つけられませんでした。
そのかわり、竹林の突然の出現でちょっとタイムスリップしたかのような感覚を味わうことができました。
思わぬサプライズに、遺跡巡りがますます楽しくなっていきます。

最後まで読んでいただき有難うございました☆彡

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