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誰からも愛されないことより、誰も愛せないことのほうが問題

#孤独について考える


何が孤独で、何が孤独じゃないのかを考えている。

「誰からも好かれないのは孤独だ」

そんな当たり前のことを思いつつ、なら反対に誰のことも好きじゃないのはどうなんだろうと考える。

「誰からも愛されないことが孤独なのではない。誰も愛せないことが孤独なのだ」

そうするとずいぶんと名言らしい言葉を思いついた。色紙に書いて路上で売りたい。

そうか。誰も愛せないことは孤独なんだ。


みんな孤独を感じている

友人の幻冬舎・木内くん(@kiuchidesu)がコルク代表・佐渡島庸平さんの著書「WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE. ~現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ~」の感想をnoteに書いていた。

木内くんは孤独を感じているらしい。

彼に共感した人たちも、Twitterやnoteでそれぞれの思いを吐き出していた。その流れは勢いがよく、見ていて面白かった。孤独に対して面白いという言葉はずいぶんと不釣り合いだなとも思うのだけれど。

みんな、孤独を感じているみたいだ。


余談だけど、

木内くんはみんなからきゅーちゃん、きゅーちゃんと呼ばれて可愛がられている。

だけど、5歳くらい年上の僕に「いしきゃわちゃん」とふざけたあだ名をつけたりするし、最近ではついに「いしかわ」と呼び捨てするようにもなった。ときには「おい」「ふざけんなよ」と乱暴な言葉をぶつけてくる。

そんな彼が真面目なトーンで「僕はコミュニケーションを取るのが苦手でコミュニティに属しながら孤独を感じていました」とnoteに書いてるのを見た時は、素直に「嘘だろ」と思いました。人間の表と裏を見せてくれて本当にありがとうこざいます。

余談です。


コミュニティの中での孤独

孤独だと語る人も、多くは何かしらのコミュニティに所属している。なぜコミュニティの中にいながら孤独を感じるのか。大きな理由の一つは、感情が受動的だからだと考えている。

人は相手に「自分を理解してくれるはず」「受け入れてくれるはず」と勝手な期待を抱く。でも、期待すればするほど理解してもらえなかったときの悲しみは大きくなる。

だから相手には多くを「求めない」べきなんだろうと思う。「求めない」と言うと人との距離を遠ざけることのように聞こえるけれど、実際には相手との適切な距離を量る行為だと思っている。

「求める」行為は自分本意で、要求は相手の意志や関係性を全て飛び越える。本当に何かをしてほしいと思うなら、「求める」ではなく「頼る」ことが本来あるべき姿なはず。

何かに躓いて転んだときに見上げれば誰かが手を差し伸べてくれると思うのは傲慢で、そんなことで怒ったり悩んだりするのは誰も幸せにしない。

転んだ人がいたとき、自分は手を差し伸べられているのか考える。それができていないなら、まずは自ら手を差し伸べることから始めてみてほしい。

誰かに何かをしてもらうことを期待するより、自分自身に期待することのほうが気持ちが楽だと思うから。

必要のない孤独を生み出さないためには、相手への期待に依存せず、受け身にもなりすぎないことが大切なんだろうな。


自分は誰かと接続できているのか


そして、冒頭にも書いた「誰も愛せないことによる孤独」。この孤独は本当に辛いと思う。

人からどれだけ好かれていたとしても、自分が誰かを好きだと意思表示できないのは寂しい。

そうなってしまうと誰かの言葉だけが自分を規定しているように感じる。実在の自分ではなく、ホログラムで映し出された(誰かの言葉によって模られた)ヴァーチャルでしかないような気がしてしまう。

さらにいうと「愛することを諦めてしまった」がゆえの孤独を感じるのは、もっと怖いことかもしれない。

予防医学研究者の石川善樹さんが「孤独になると人は他者への攻撃性が高まる」と話していた。一度孤独になると、誰かを愛するという行為からどんどんと遠ざかっていってしまうようだ。


友だちが多い少ないは関係ない


僕は友だちが少ない。「愛と勇気だけが友だち」と言い切ってしまうあのパンのマンとためを張るくらいには少ない。

人の輪に飛び込んで積極的にコミュニケーションをとるタイプではないし、学校では机でひとり本を読んでいたような人間だ。自己紹介とかもロクにしない。

それでも、あまり孤独は感じていない。

「誰のことも愛せないことが孤独」としたことの逆説で、僕は身近にいる人たちを猛烈に愛していると思う。

(不特定多数の)誰からも好かれないとしても、誰かを好きになれないよりはずいぶんとマシな気がする。自分の愛情をぶつけられる対象がいるということは本当に幸せなことだ。

もちろん全てがいい方向に進むとは限らない。それでも「愛情」という熱が自分の中にないことの寂しさやむなしさに比べたらどうってことはない。

嫌いな人のことを無理矢理に好きになる必要はない。好きな人に思いっきり好きを伝えればいい。

友だち、恋人、恋人にしたい誰か。対象が必ずしも人である必要もなくて、モノでもコトでもなんでもいい。

好きの感情が上手く表現できなくなったら、自分は孤独だと心配になる。

恋愛において「自分を好きな人が好き」という人が結構たくさんいる。それは孤独を埋めるために湧いてくる人としてごく自然な感情なのかもしれない。

どこかのアイドルが「愛されるよりも愛したい」と歌っていた。

今の時代、僕らはAIに勧められたものを受動的に消費していれば充分な幸せを手にすることができる。でも、そんな生活をしていたら能動的に何かを愛することを忘れてしまうかもしれない。

それこそが孤独だ。

孤独がダメだとは思っていない。でも一生孤独でありたい人はいないはず。僕もそう。

だから誰かを、何かを愛そうと思う。

誰かを、何かを愛することが存在証明になる。

これから先、誰のことも愛せなくなったらあらためて孤独についての問いを立てよう。

できればそんな日は訪れることなく、大好きな鳩のことだけ考えていたい。

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