洟垂れ小僧だったガキの頃観た怪獣映画や東映動画は、近所の幼馴染みと一緒に、子供だけで鑑賞するのが当たり前だった という話
私が生まれ、就学するまでの6年間暮らした名古屋の北部、西区天塚町は、名古屋城の北約2キロに位置する下層階級(ほぼ生活困窮者)の人々が暮らす典型的なダウンタウンだった。
火の車、その日暮らしという言葉が妙に当てはまる、清貧などととは真逆な暮らしぶりだったにも関わらず、山の手の中産階級のお坊っちゃま方と同じように、当時流行ったゴジラシリーズ(昭和35年生まれの私はゴジラ対キングギドラ位が最初の映画館で観た作品 の・ような気がする)であったり、大魔神怒るであったり、ガメラ対バルゴン(大映が満を持して世に送り出した初代ガメラは、未だ見る機会に恵まれていない)であったり等の一連の作品は、怪獣バカと呼ばれる熱病に侵される少年を巷に蔓延させた。
その映画館の名前は忘れたが、子供が歩いて何とかたどり着ける距離、北区黒川と呼ばれる繁華街にも、黒川ナンタラと呼ばれた二番館が存在した。
雑居ビルの二階にあった黒川ナンタラ映画館は、座席数500にも満たない小さな映画館だったが、身長が1メートルに満たなかった当時の私にとってそこで見る映画は、どれも大迫力の一大スペクタクルそのものだった。
瞬く間に広がった怪獣バカウイルスの感染力が凄まじかったせいもあり、近所の洟垂れ共にもあっという間に広がり、何時とはなく其々が自分の親を言い含めて、封切りの怪獣映画を見に行く手立てを練った。
「よっちゃん家は、子ども同士でゴジラ対キングギドラ見に行ってええよって言ってもらっとるで、俺もええでしょ?」
こんな具合に人の親をだしに使って映画詣でを楽しんだ。
だがさすがに年端もいかない子ども同士で数キロ離れたその場所まで出向くことは叶わず、皆の親が交代で、盆暮れ正月に放映されたガメラ対ギャオスだったり、キングコング対ゴジラだったり、長靴を履いた猫だったりを、多分自分の子供らの喜ぶ姿を見たいが為に足を運んでくれたのだった。
しかし振り返れば、私の親を含め各々のかあちゃん、父ちゃんは、決まって子供と一緒にそれらの映画を鑑賞するなどということはなかった。
子供と一緒に映画を鑑賞するような奇特な親がいなかった理由は、自分の分の入場料を払ってまで観たいという気持ちが沸かなかったからと、我が子を放ったらかして手に入れられた貴重な時間を、もっと他のことに有効活用したいという姑息な考えに依るところが大きかったに違いない。
大人は、普通に地元に存在した二番館で、子ども映画を子どもと一緒に楽しむといった風習が当時の日本には無かったことのような気がしないでもないが、それは多分私の廻りだけの話で、普通の親はそんな危険な目に逢わせかねない行為に及ぶような真似はしたくてもできなかったのだろう。
無論そんな、オール自由席で、終了後の客の入れ換えもない当時の二番館では、上映回を重ねる毎に客数が増え、午後の遅い部になると立ち見も当たり前映画を見ているのか前の人の後頭部を見ているのか訳がわからない有り様だった。
最後に付け加えるならば、入場料を捻出するのがやっとで、売店で売られたカップアイスや駄菓子等ついぞ口にできなかったが、海水浴は元より家族旅行の思いでもない当時の私には、この映画観賞の機会が何より思い出に残る娯楽の殿堂だった。 という話だ。
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