知らない街のゴミを拾いながら1日歩いたら、最後に人は何処へ辿り着くのか
みなさま
お世話になっております。天竜川ナコンと申します。
突然ですが私は、少しも人の役に立たない人間です。
昔から、友人とバーベキューをする時も「火をおこす」「肉の仕込みをする」といった準備の仕方をよく知らないため、ひたすら周りを行ったり来たりして「何かをしている感」をアピールし、やり過ごすような人間です。
「俺だって、何かの役に立ちたい」
なので今日は、一人で知らない街のゴミ拾いをしたいと思ったわけです。
とはいえ、不用意に始めると挫折しそうなため、
【1】ゴミ袋がいっぱいになるまではやめない
【2】常にゴミのある方向へ歩いていく
という二つのルールを守って行います。
本来ならやりたくないゴミ拾いを"一人旅"のように扱い、最終的にどこに辿りつくのか。そこも楽しもうと考えたわけです。
駅前からゴミ拾いスタート。地面を見ながら歩きます。すると…?
あったあった。タバコのポイ捨て。
最もオーソドックスな形のゴミ。早速トングで拾っていきましょう。
他にもお菓子の袋があったり…
オー◯キのレシートなども拾っていきます。いきますが…
割と人の目がキツくてワロタ
善行って、悪行と同じくらいキツいな。
人通りが多いと、つらい。
通りすぎる人たちが皆こちらを一瞥(いちべつ)した後、神妙な面持ちに切り替わるのが、つらくてしょうがないのです。
「渋谷を皆でゴミ拾いをする」や「家の周りを一人でゴミ拾いする」などは理に叶っている話ですが、「知らない街を、一人でゴミ拾いする」ことの異様さが、関心を引いてしまっている気がします。
また、質問された時に、いっさい論理的な説明を行えないため、良いことをしているはずなのに警察も避けなくてはいけません。
十字路に差し掛かるごとに、周りを見渡してゴミのある方へ曲がりながらどんどん進みます。はたから見れば、家の中にいるクモみたいな挙動かと思います。
ここで異変に気づきます。一生懸命ゴミを拾っているはずなのですが、なぜか袋がいっぱいになりません。
タバコや紙などは割と落ちていますが、大きいゴミは中々落ちておらず、拾った数量に対して全然たまらないのです。
なので、少し不謹慎な話ではありますが、この頃からタバコの箱など大きめなゴミを見つけると喜んでしまう体になってしまいました。
てか、ここ、どこなんだろう。
知らない街なのと、ゴミのある方向へひたすらアトランダムに進んでいるだけなので、地理の感覚が全くありません。たまにお洒落なカフェとかあるのですが、ゴミ持ってるから入れない。
途中、でかいゴミを立て続けにゲット。不幸中の幸い。漁師って、こんな時、こういう気持ちになるんだな。
甲斐あって、何とかゴミ袋も溜まってはきたのですが、一転して重くなってきました。当たり前のことですが、ゴミは拾えば拾うほど、重くなります。
すれ違う通行人が、私の持っている袋がだいぶ「ゴミ袋」になってきたからか、とても訝(いぶか)しげな顔をします。あからさまに避けるのです。
確かに私は今日、異常な経緯でゴミを拾っていますが、それでも人がやりたがらないことをやってあげているわけです。
「オメーラがポイ捨てしたゴミを拾ってあげているだけなのだが?」そんな気持ちが湧き上がるくらいには、余裕が無くなってきていました。
てか、なんで俺こんなことしてるんだっけ。
ただただ、修行じみてる。
週5日勤務の週2日休みで、今日がその休みの1日なのに、なぜ「勤務の日」にしてしまったのか。意味がわかりません。
ただただ、足も疲れました。
普通に歩き回っているわけではなく、ゴミを見つけたら前屈みにならなくてはいけないのも、ダメージが大きい理由だと思います。
総合的に、ゴミ拾い、ダルすぎワロタww
良いことをしてるのに人には訝(いぶか)しげな顔で見られるし、足はめちゃくちゃ疲れるし。
もう家のゴミを詰めて「いっぱいになりました」でいい気がしてきた。
「そっちのプラン」に切り替えようと駅っぽい方へ向かおうとした矢先。自動販売機が目に飛び込んできました。そういえば、何も飲んでなかったな…
そしてそれは、購入した「いろはす」を口いっぱいに含んだ瞬間に、自然と口から出た言葉だったのです。
「自分が、自分で恥ずかしいぜ」
たとえ、他人にどんな目で見られようと、肉体が悲鳴をあげようと、やっていることが、本当は無意味であろうと。私は他人に選ばされたことではなく、自分で選んだ結果、今こうしてここにいる。
その意味を、今一度自分でよく噛み締め始めたのです。
ゴミ拾いした後に飲んだ「いろはす」がうますぎて、折れかけていた心を、まるで聖杯のように癒したのです。
ポイ捨てされたゴミは、「他人の罪」とも言い換えられるかもしれません。
つまりゴミ拾いとは、「他人の罪」を一つひとつ拾い上げていく過程と同じ。正に、そのことに気づいたのです。
そして私が、「他人の罪」を背負う覚悟が、できたということなのです。
ゴミを拾いながら、前へ前へと進んでいきます。私が通った後には、当然ゴミは残っていません。まるでそれは、かつて海を割った、モーゼのようだったかもしれません。
「もはや、どこに辿り着こうと構わねえ」
ただ下だけを見て、愚直にゴミを拾い続けていった結果、不可能だと思われていた、ある奇跡に直面します。
ついに──
ゴミ袋が、いっぱいになりました。
そして顔をあげたのです。奇跡が起きた瞬間、最後に辿り着いた場所をこの目に焼き付けるため。
そこは──
そこは、「教会」でした。
ここで、一つ皆様に訴えてえことがあります。
人には、他人のために自分を犠牲にできる「勇気」が備わっているということです。
今日、役に立たない私ですら、顔も見えない人の捨てた、知らない街のゴミを、袋がいっぱいになるまで拾うことができました。
確かに、時間も体力も、そして精神力も費やしました。
しかし、そうまでしてでもゴミ、いや、「他人の罪」を背負うということでしか見られない景色や、得られない感情があったことも、紛れもない事実なのであります。
そしてそれは、自分を途方もない「高み」へ連れて行ってくれるものだと確信できたのです。
みなさまも是非、知らない街のゴミ拾いをしてみてください。
ありがとう、「知らない街のゴミ拾い」
「知らない街のゴミを拾いながら1日歩いたら、最後に人は何処へ辿り着くのか」
〜FIN〜
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