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「教養」について思うこと

※突発的に書き綴っており、文構成がめちゃくちゃです。後日また別ノートで話をまとめたものを投稿します。申し訳ありません。

プロフィールにも書いてあるのだが、よく哲学や社会学、政治学などをこの歳でやっていると頻繁に言われることがある。

「そんなことより、」

まぁ正直私みたいな落伍してる高校生が身勝手に哲学や社会学にこころの拠り所を見出そうとするのは自分でも「傲慢だな」とは思う。とはいえ、私がそれらの学問に興味を持ったのは何もつい最近のことではない。実に三年ほどそう言った学問には目を向けてきたし、それは落伍する前からだ。
生まれたこと自体大失敗みたいな人間がつい最近まで社会参加できていたのも、正直なところそう言った学問に触れる中で身につけた詭弁のおかげだという自負がある。

少し話は変わるが、本ノートでは昨今の「教養」の議論について少し思うことをだらだらと書き連ねたいと思う。しかしこれまた面倒な問題だが、「教養」について語る時、それは語用論的に「自分が教養について知っているし、それに満ちている」という前提がある様に思う。ただ、私にとって教養とは(あとで記すが)欠如していることが前提なのだ。それ故、どうか傲慢な態度で教養について語ろうという気は毛頭ないということを理解していただきたい。

そもそも今回の主題の「教養」の議論の発端はおそらくだが菅内閣総理大臣に対する批判の一つとして「教養がない」と誰かが発言したことがきっかけだった様に思う(余談だが、件のことについて私は左翼的な立場ではあるのだが些か「みみっちい争いだな」とは思う)。
そこからTwitterの一部の界隈において「教養」という語彙が一人歩きし、都会と地方の教養格差 etc.などに発展していった様な気がする。といっても、その手の事案は割とコンスタントに論争が続いている印象もなくはないので、実際の因果関係は不明。

教養とは何か

さて、前置きがかなり長くなってしまって申し訳ないが、まず私が書いておきたいと思ったのが、「教養とは何か」ということだ。

私自身、「教養」という語を聞くと身構えてしまう。自分の教養のなさを熟知しているからだ(無知の知とかそういうことではない)。

例えば私は父の影響でフランス語を第二外国語として勉強していた時期があったが、今ではすっかり抜け落ちている。これはつまり、「フランス語にまつわる教養の欠落」でもある。

例えば私はいわゆる「詩」に関する全般に疎い。有名な詩人も今聞かれても誰一人として思いつかないし、詩の面白がり方も知らない。というかまともに読んだことがない。これもつまり、「詩にまつわる教養の欠落」である。

・・・とまぁこの様に自分に欠けている「教養」は枚挙に遑がない。

しかしだ、要するに何が言いたいのかというと、「教養」という語彙は頻繁に、というか体感的にはほぼ必ず「他人を蔑む」目的で用いられる。
件の発言然り、ネット上でのみみっちい言い争いもそうだが、そういった教養のなさを指摘することで相手を「攻撃」する様な用途でしかその語彙が使われていない。

とはいえ、単純に考えれば誰しもある側面では「教養がない」のだ。
天才数学者はもしかしたら有名な文学を嗜んでいなかったかもしれないし、優秀な電気技師は実は料理がちんぷんかんぷんかもしれない。

「教養」という語彙は、知を楽しむ者が自身やお互いを鼓舞するために用いるべき言葉であって、使用者は大前提として「教養がない」のだ。

先に挙げた様に私も欠落している教養がある。しかしそれらを諦めたわけではない。その教養を得ようとする心意気がある限り、その教養のなさを他者が攻撃することはナンセンス極まりないのだ。もちろんそれを得ることを放棄する場合は別である。それは「知」に対する全般的な侮辱であり、考え直すべきスタンスだからだ。

いかにも結論かの様な書き方をしてしまったが、実はもう一つ思うことがある。時間があれば読んでいただきたい。

「教養」の定義付けは、「教養」それ自体を損なう

先ほどは「教養という言葉は本来こうあるべき」という様なことを述べたが、あえて「教養」が包括するものについては触れなかった。

「何が教養であって、何が教養でないか。」この暗黙的な定義付けを私は常々疑問視しているからだ。

そもそも、なぜ「教養の無さ」を指摘する潮流がこうも一般化されてしまっているのだろうか。
思うに多くの人が薄々気づいてはいると思うが、それは「社会における知的能力での序列化」の弊害ではないかと思っている。

先日この様なツイートが目に入った。

このツイートの文脈がわからないので、とりあえず文字通りの解釈で話すが、そもそも「知的能力の卓越を競う祭典」などわざわざ設けずとも今の社会の中心的価値観と社会運営のレギュレーションは「知的能力の卓越を競うこと」なのではないだろうか。

もし仮に、運動能力で学歴や立場が決定出来る社会があったとして、上位層の優位性はおそらく彼らが30代半ばを迎えた頃にはすっかりピークを迎えてその後は衰退の一途を辿るだろう。だが知性はそれより耐久年数は長い(永続的ではなく、あくまで保持できるというだけ。)。
だからこそ、社会階層化の必然としての社会運営は、「知的能力による序列化」をレギュレーションとするのだ。

それを踏まえた上で、他人の教養の無さを指摘することがなぜ”攻撃”になるかというと、それは「知的能力の序列化」という前提があるからだ。

加えてもう一つ前提がある。それは、「教養の定義」だ。
はっきり書くが、先の序列化を踏まえて、現代における教養は「生産性と直結した知識」だ。それ以外は教養ではなく所謂「雑学」になる。

これこそが「教養」それ自体への脅威であると私は思っている。

究極的に言えば、生産性に結びつかない情報は非教養的として徹底的に「学問としての市民権」を失う。冒頭で書いた私の実体験はまさしくこのことでもある。とはいえ、私の独りよがりな杞憂と不満はもっと個人的なケースだとは思うが。

しかし、こうした「教養の限定化」は間違いなく知識、学問全体への弊害である。
教養の限定化が進むことは、社会全体の学校化schoolingにも近い状況ではないだろうか。

と、ここまで書いておいてあれだが、話がとっ散らかってきたので、後日話をまとめたものを投稿しようと思いまする。

駄文失礼いたしました。




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