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【翻訳】 経済学はなぜ重要なのか|ブランコ・ミラノヴィッチ インタビュー

経済学系のエントリを掲載するウェブサイト"Age of Economics"によるブランコ・ミラノヴィッチ(Branko Milanović)へのインタビューの [要約・意訳記事] になります。

注意:訳者の知識不足、技量不足により解説や本文等で誤った箇所がある可能性があります。お気づきの際は適宜ご指摘いただけますと幸いです。

また、本エントリは一切収益化しておりません。

① 経済学はなぜ重要なのか:

これは非常に重大かつ難解な問いです。おそらく二通りの答えを出すことができるでしょう。まず私が若い頃にマルクス経済学を学んでいた時に使っていたであろう答えから始めましょう。経済学が重要なのは、歴史における壮大な政治的・経済的変化に目を向け、それを経済的な要因を使って説明することができるようになるからです。言い換えれば、経済学は唯物史観の一分野であると言えるでしょう。経済的な要因による意思決定が社会を形成し、変化させるという見方です。

新古典派経済学はより現実的(プラグマティック)な経済学の立場です。新古典派経済学は、アルフレッド・マーシャルの定義に基づき、なぜ経済学が重要であるか、その理由を、経済学が我々の普段の生活に目を向け、その生活を改善し、我々の所得を高くし、自由な時間を増やし、貧困を無くして、我々が満足な生活水準を保ちながら好きな活動を楽しめるようにすることを目的としているからである、としているのです。

② 経済科学(アカデミックな経済学)と、経済工学(政策立案における経済学)の違いとは:

これはさらに難しい問いです。アカデミアにおける経済学はより抽象的であり、学術的発展に伴う内部要請、あるいは人々があるタイミングで最も関心を抱いているトピックについて応えるものであると言えるでしょう。また、政策に用いられる経済学が政策決定には付き物とされる課題によって促進されるのに対して、数学的な解決が困難な課題によって促進されるのがアカデミックエコノミクスです。

しかし、いかなる偉大な経済学者の中でも、この二つのアプローチを厳密に分類できた者はいないと言えるでしょう。彼らの生涯を鑑みると、彼らは技術経済学者であり尚且つその実践者でもあります。尤も彼らは、技術経済学を実際の政治目標を達成するための手法としていました。まずはケネーを例に見てみましょう。彼は『経済表(tableau économique)』という、経済の流れを初めて総合的に捉えた著書を発表しました。これ自体は非常に論理的なものに見えますが、実は彼個人の政策(立案)への関心から生まれたものなのです。実際彼は農業支援、自由放任主義、レセパセ・ポリシー*1など、フランスの経済政策に非常に具体的な影響を与え、政治的には、啓蒙エリートによる社会運営を促進しようとしました。

あるいは、アダム・スミスやデヴィッド・リカードのような明らかに政策立案に関心を向けていた経済学者ほどの好例はいないでしょう。リカードの場合はさらに露骨です。彼は『政治経済学原理(The principles of political economy)』という著書を書き、社会階級に基づく最初の経済学モデルを作りましたが、それは彼がイギリスが"穀物法(Corn Laws)"*2を廃止することを望んだことに由来します。そしてマルクスも同様に政策立案に関心を示しましたが、資本主義社会での政策改善の必要性ではなく、資本主義がいかにして発展するのか、つまり何が(経済)危機のトリガーとなるのか、所得の二極化は進んでいくのか、といったことを経済学でもって訴えかけることに関心を持っていました。ケインズも同様で、ほとんど言及する必要がないほどに彼は生涯を通じて政策立案に関わり続けました。

またより現代の経済学者もいます。例えばミルトン・フリードマンは政策立案に大きな関心を寄せました。彼がチリで行ったこと*3に対する意見はさまざまでしょうが、そこは重要ではありません、なぜならここで私たちが扱っているのは、いわゆる理論経済学と政策(向きの)経済学との間に明確な境目がないということなのです。ですから、現実の世界ではこの二つを大別する必要はないと思いますし、私がここで示そうとしたように殆どの主要な経済学者は事実そうしなかったのです。そして本当に偉大な経済学者になりたいのであれば、経済政策がどのように立案され、どのようにして遂行されるのかについての関心を持つべきなのです。

③ 経済学の社会における役割とは?果たして公共善に貢献するのか:

過去2世紀で経済学の役割が広がったのは、社会が非常に資本主義的になったからであると言えます。資本主義社会において成功するためには、数字に強いこと(numerate)が不可欠です。そして経済学というのは結局のところ、量と価格を扱うものであり、そしてたとえその量や価格が数式や方程式などのより抽象的な形で数学的に表現される時でも、そこに通底するものはやはり、"数字"なのです。現代社会の数学力を比較すると、過去の社会のそれよりも遥かに大きく、現代社会を断面的に見ても、貧しい国よりも豊かな国の方が数学力、経済意識が遥かに進歩しているように思われるのです。私は以前から、(国の)発展を後押しする方法の一つに、経済的な意識を高めることだと考えてきました。30年ほど前にクアラルンプールでその四半期や月の経済成長率を示すような巨大なネオンサインを見つけた時の感動は、今でも覚えています。

数字に強くなることは、経済学を理解する上での前提条件の一つです。ですから、経済学が社会で果たす役割はますます大きくなっています。さらに、ご存知のように経済学の手法が政治学や社会学などの他の社会科学に無差別に適応されている、経済学の「経済帝国主義(エコノミック・インペリアリズム)」を批判する人たちさえいるのです。そして私は、その点にこそ事の実態があると思うのです。経済学が有益な語り手となり得る物事には限りがあります。経済学の方法論は、本来であればより歴史的なアプローチがより妥当であろう問題に対しても不適当に適用されていることから、時として経済学の担う役割は大きすぎるものなのかもしれません。

④ 経済学は市場、効率性、利益、消費、経済成長などに関する問題への答えを提供するが、気候変動やより広義の環境問題、社会におけるテクノロジーの役割、人種や階級の問題、パンデミックなど、人々が関心を寄せる問題にも対応するのか:

実際に経済学が活躍している領域とそうでない領域に分けるのは困難ではありますが、人種や男女の平等、そして気候変動の問題に関しては、経済学はかなり活躍しているのではないかと思います。とはいえ、経済学だけでは気候変動は解決できません。なぜなら気候変動の抑制は政府間での強力と、人々がCO2削減と一部の経済的利益のトレードオフを受け入れられるか、というところにかかっていることを認識しなけらばならないからです。ですから、仮に経済学者全員がある一つの解決策を打ち出したとしても、つまりは経済学者間に意見の相違がない場合であっても、そこには依然として政治的な判断が必要となってくるのです。

私は過去50年間、より正確にいえば10年前に大きく話題に取り上げられるよりも前から、不平等に対する新古典派のアプローチには特別疑問に思うことがありました。それは、そのアプローチが不当に脇に追いやられていることです。経済学の教えられ方にはいくつかイデオロギー的な理由と、冷戦に関する政治的な理由もありました。その研究方法についてもいくつか誤りがあり、経済学は希少なリソースを様々な用途に配分する科学である、という超限定的な定義を持つ"生産側"と、政治的意思決定のみに従うとされる"分配側"に峻別されてしまったのです。このように「生産」と「分配」を区別してしまえば、後者は事実上、経済学から仲間はずれにされてしまうのです。そして実際に、分配のトピックは"ミュート"され、あるいは厚生経済学、すなわち第一・第二厚生定理の形に希薄化されてしまい、これは不平等の問題を扱う上で最も不毛な方法論であると私は考えています。今度出版する予定の自著は第一章でまさにこの点を扱っています。なぜ新古典派経済学者は分配の問題に無関心であったのか、この点についてより詳しく語っています。

⑤ 経済の発展が大きく取り上げられ、経済学者が政策や人々にまで影響力を持つこの時代で、経済学者はその提言に対する責任を持つべきか:

私の考えでは、経済学者は一度政治の場に立つと責任感を持つようになるのではないでしょうか。例えば、Mario Draghiは今ではその責任を果たしていますし、ECBのトップだった頃にもそうでした。しかし、教授時代の彼はそうではありません。本人のミスが直接的に悪い結果につながらない場合には、責任感を持つのは難しいことです。たとえミスを犯したとしても、その直接の責任は彼らにはありません。それはそのような決断を下した"誰か"の責任なのですから。もちろん、他の誰かがすぐに間違いを指摘することである意味では責任を果たすべき立場にいることに変わりはないのですが、間違いを犯した経済学者を追放する裁判をすることはできないのです。

⑥ 経済学で資本主義を説明できるのか / 資本主義の定義とは:

まずは後半部分の質問からお話しします。私は拙著『資本主義だけ残った』の中で資本主義を定義していますが、これは非常にシンプルな定義だと思います。そしてまさにシンプルで簡潔であるが故に、資本主義の本質を捉えているのです。この定義はマルクスやマックス・ウェーバーが用いた定義でもあり、シュンペーターもこれから私が説明するようなディテールを加えた上でこの定義を用いていました。この定義には3つの要素があります。1つ目は、ほとんどの生産が個人所有の生産手段によって行われるということ。2つ目は労働者は「雇われ労働者」を指すこと。これは、労働者が起業家的な役割を担っていないことを意味します。つまり、何をどのように生産するかの決定権は、労働組合とは違い、労働者には無いのです。彼らは決定権を持つ資本家に雇われているに過ぎないのです。この"雇用"について、つまり労働者をモノのように扱うことが、マルクスの有名な"疎外"の原点にあるのです。ゆえに疎外とは資本主義とは切っても切れない現象なのです。

3つ目は「分権的な調整が行われる」ということです。何をすべきかを決定する中央権力が存在しないのです。言い方を変えれば、ハイエクが書いた「自然発生的な秩序(spontaneous order)」ということです。シューペンターはこの定義の中で、設備投資(fixed investment)のほとんどは民間部門によって行われることを付け加えました。つまり全体として、これこそが資本主義の経済的な定義だと私は考えています。

そして中国を含む多くの国々を見てみると、彼らはこの資本主義の定義を満たしているのです。これが私にとっての資本主義であり、最適な定義であると考えています。しかしもちろん異なる定義を持つ人もいますが、その定義は過度に複雑だったり、空想的だったり、あるいは史実からかけ離れていることがあるのです。

さて、経済学で資本主義を説明できるのか、この答えはイエスでしょう。特に資本主義の台頭について、経済学史研究は資本主義の出現と台頭、そして今日私が思うところである"資本主義の世界征服"を説明するために経済的なツールを用いています。例えば、ボブ・アレン、ピーター・リンデルト、ジェフリー・ウィリアムソン、ケネス・ポメランツ、レアンドロ・プラドス・デ・ラ・エスコスラ、ジャン・ルーテン・ヴァン・ザンデン、ジェーン・ハンフリーズ、ピア・フリース、シェヴケット・パムク、スティーブ・ブロードベリー、そして奴隷制や植民地主義、西欧とアジアの大分岐(The Great Divergence)*4に関する経済歴史家たちが過去10~15年の間に行ってきた研究の成果が思い浮かびます。ここで挙げた研究のほとんどは、アンガス・マディソン(Angus Madison)の貢献が大きくあります。マディソンは現役時代のほとんどをOECDで過ごし、18世紀まで(バージョンによってはローマ帝国時代まで)に遡る所得についてのデータセットを作り上げ、これは現在では現在では時間的・地理的に拡張されています。これらはすべて定量的な方法を用いて現代文明を解明しようとする試みなのです。この功績なしに今日のような進展は無かったでしょう。例えばイギリスや他の国々の所得や賃金のデータ無しに、産業革命がいつ始まったのかをどのように説明すればいいのでしょうか。これは経済学史に限った問題だけではありませんし、その点は強調すべきことです。こうした問題は、現在の各国の所得格差を説明し、その格差を縮小する方法、即ち経済的収束を達成する方法を検討するのに役立つのです。経済学の発展の究極的な目標は、世界のどの地域にも体系定期な所得格差が存在しないようにすることなのです。

今多くの人物を挙げましたが、ポール・ベイローチのことも挙げておくべきでしょう。ポール・ベイローチはご存知の通り国連に務めたのち、量的歴史経済研究のパイオニアの1人になった方です。そしてアンナレス学派や、もちろんブラウデルもここに挙げられるでしょう。

⑦ 古代エジプト・ローマも、中国・ヨーロッパの封建制も、ソビエト連邦も、永久に存続した人類のシステムはこれまで存在しない。ではグローバル資本主義は今のままで生き残ることはできるのだろうか:

私は自著の中でそのことについてかなり楽観的な見解を示しています。私は資本主義は現在、その影響力の頂点にあると考えています。もちろんこれがグローバルな最大値でありここから降下するのか、あるいは局所的な最大値でありまたさらに上がっていくのか、それは我々には分かりません。

この議論をある二つの点に基づいて行っていきます。まず第一に、資本主義経済が(ひとつ前で述べたように)地理的にこれまでに無いほどに地表を覆っているということです。これは中国やベトナムはもちろんのこと、共産主義が崩壊しソ連や東欧諸国が資本主義に転じたことが原因です。

しかしそれだけではありません。二つ目は、資本主義は我々の生活や余暇に"侵入"したり、かつては個人資産でしかなかったものを資本に変えるなど、ますます新たな動きを見せてきている点です。自動車は、かつては個人資産であり、通勤や外出に利用することができました。しかし今や車は資本となり、車を貸し出して利益を得ることもできれば、特に用事がない時には数時間運転手として稼ぐこともできます。住宅もまた資本になりました。住宅は今や収入生み資産なのです。そして私たちの"時間"はかつてないほどの潜在価格(シャドウ・プライス)がついているのです。

これは20世紀初頭にローザ・ルクセンブルクによって始まった議論に遡ります。ルクセンブルクは資本主義が拡大するためには、非資本主義的な生産形態に進出し、基本的にはそこを"侵略"する必要があると主張しました。資本主義は定義上、(利益追求のために)常に拡大し続けており、新たな進出地域がある限り、生き残ることが可能なのです。しかし一度それが無くなると厄介なことになるのです。しかしながらこの、謂わば「水平/ホリゾンタル」な拡大だけが資本主義の拡大ではないのです。シュンペーターが書いたように、資本主義は新しい生産手段を生み出し、既存のものを組み合わせて新たな商品を作り出すことでも拡大していきます。その意味では、近年の資本主義は既存のものを商品化すると同時に、多くの新しい評品を生み出してきたということが言えます。これを私は「垂直/ヴァーティカル」な拡大と呼んでいます。

結論として、現状私は資本主義にとっての真の対抗馬はないと考えています。しかしながら、私は永遠に続く一つの"自然な"生産様式があるとは考えない点において、非常に「歴史学派」的な立場の経済学者であるということを最後に述べておこうと思います。資本主義の定義において私が先ほど述べた1つないし2つの要素が成立しなくなるような状況というのは確かに想像がつきます。しかし先ほども言ったように、現状そうした兆候は見受けられないのです。

⑧ 資本主義、あるいは我々が現行のシステムと呼称するものは、人類のニーズに応える最良のものであるのか、それとも別のシステムがあり得るのか:

これは本当に難問ですね。なぜなら私たちは常に物事が良くなっていくように想像することができてしまうからです。しかし問題は、そのような妄想やユートピアは実現可能なものなのか、というところです。つまり、例えば気候変動を例とすると、私はケイト・ラワースやジェイソン・ヒッケルとは意見が分かれます。私たちはプラネタリー・バウンダリー*5と両立できるような合理的かつ最低限度の生活水準で皆が幸せになれる世界を想像することはできます。

そう、想像することは確かにできるのです。そして実際にそれを紙に書いて、その世界が十分な量のカロリー、シェルター、衣類などを生産し、全人類が今よりもはるかに少ないエネルギーで生き残ることが出来るということを計算することも可能なのです。しかし、問題はそのような世界を実現することが果たして可能なのか、ということです。そこが問題なのです。なぜなら実際にそのような世界を実現しようとすれば、豊かな国に住む人々の多く、あるいは世界の平均所得より高い所得レベルにいる人々が、50〜60%の所得を失うことを意味するからです。彼らからすれば到底受け入れられることではないでしょう。これは1%や2%程度の小さな(経済)成長の落ち込みでさえしばしば大規模な政治的事案に発展するという事実を鑑みれば、むしろ日を見るより明らかでしょう。欧米の中産階級にいる多くの人々の所得を半分にするべきだ、などと主張した日にはもうどうなることか…。

そして人間は、一般的にはより多くを求める生き物であることも認めなければなりません。なので、この「生存ギリギリの環境」では満足ならない人がかなりの割合で現れる事になります。

しかしながら、もう一つ危険なことがあります。それは、楽観的でいるあまり、どのようなものであれ現状こそが唯一の解決策であり、最良かつ不変のものである、と言い切ってしまうことです。このように私たちには二つの性質の異なる危険を孕んでいます。ひとつは、実現不可能なユートピアを夢想すること。もうひとつは現状こそが唯一可能な生き方であると信じ込むことです。私はこのどちらのアプローチもそれぞれ異なった理由で誤りであると考えています。つまり、私たちは現状を受け入れつつ改善に向けて取り組まなければならないのです。

もちろんこのことがあまりにも壮大で難解に思えてしまうことは重々承知です。その目的も限定的ですからね。しかし進歩というのは大方このようにして達成されてきたのではないでしょうか。

インタビュアー:それは、小さな一歩を踏み出すための政策、ということでしょうか?

はい、そう言えるでしょうね。小さな一歩を踏み出すための現実的な政策です。私が本当に避けたいことは、壮大なユートピアを夢想してしまうことです。またその一方で、一切改善のしようが無い自然なシステムの存在を信じることもまた避けなければなりません。まとめると、例え目下それを変えるような策が想いつかずとも、資本主義が永続的なシステムとは言い難いと認識することが重要である、ということです。

また、改善策(もし仮にそれが存在するとしても、とはいえ先に述べた通り現状私には全く見当がつかないが)を持とうとする考え自体も、この問題の考え方としては誤りだと思います。というのも、過去にさまざまなシステムの進化を見ると、経済的に効率的なシステムが生き残ってきたのです。より効率的な生産方式を取り入れたいという人々のインセンティブによって、そうしたシステムが優勢を誇ったのです。言い換えれば、農奴制は資本に雇われた自由労働のシステムよりも、生産性の面で劣っていたことは明らかなのです。そして共産主義の失敗は、それが資本主義よりも非効率であったことが原因だということも明らかなのです。

これは抽象的な話ではなく、より効率的なシステムはより良い生活水準を人々に提供し、人々はそれを望んでいた、ということなのです。このようにアクティビズム的な要素が働いているのですが、私はこれを最小限に抑えるべきとは考えません。より効率的であることは、それすなわち勝利を意味するわけではないのです。むしろそれを勝ち取らなければならないのです。しかし根本的に効率性無くして、その戦いは、たとえば毛沢東の大躍進政策(Great Leap Forward)のような単なる自発的な運動になってしまうのです。

資本の規模や、労働との力関係が変化することで、資本主義のある特徴が消えてしまうことも有り得ます。一例をあげましょう。半世紀以上にわたって資本(金融資産と実物資産)が大幅に増加したとして、その一方で世界人口が100億人、110億人と頭打ちになると、資本と労働の相対量(relative abundance)が変化し、資本家と労働者(または広義に重大な財産を持たない人々)の交渉力が変化することは間違いないでしょう。これは近年のスタートアップ事業にも同様の現象を見ることができるかもしれません。人は基本的には計画的に行動します。彼らはお金を借り、起業家としての才を自らのものとします。つまりこれは、資本主義に変化をもたらす方法の一つとなり得るのです。私は先々のことを考えることに対して反論するつもりはありません。ですが、より大きな枠組みでの改善案、特に"脱成長"(degrowth)のように非現実的な改善案に飛びつかないようにと警戒してはいます。

インタビュアー:COVIDに関して私からも一つ質問をさせてください。システムをどのように変革するのか、そしてそこから得られる教訓について、多くのアイデアがあることは確かです。ですが、システムを変革しようにも、実際にそのコストを如何にして工面するのか、あるいは国がどのようにして(国の)歳入を上げることができるのかという点については、あまり強調されていないことがしばしばあります。この点についてはどのようにお考えでしょうか?不平等に対処するに当たって更なる累進課税や給付制度が必要だとする人は多いでしょう。このことについても何か考えがおありでしょうか?

我々が(コロナのパンデミック)から学んだと言える教訓はいくつかあるでしょう、"今のところは"。というのも残念ながらパンデミックはまだ終わっていないからです。さらに言うと、このウイルスは我々を翻弄しているようにも思えます。暗いトンネルの先の光が見えたと思ったら、何かが私たちを押し戻そうとするのです。ですが今は我々が学び得たことを確認していきましょう。

まず一つは、特に健康全般と感染症の予防に関して、国の役割をより大きくする必要性があるということです。これは何も今回で初めて判明したことというわけではありませんが、これまで忘れられてはいました。パンデミックはその必要性をあらためて思い出させてくれたのです。多くの国では感染症の発生時に必要になる生活必需品の生産に対するコントロールが回復しています。

二つ目は、多くの仕事は実はリモートでも行えるという気づきでしょう。リモートで仕事を行える能力が多くの職種に影響することから、このことはグローバル労働市場にも影響を与えることでしょう。ポスト・パンデミックの労働市場はきっと労働者による物理的な移動を必要とせずに今日のグローバル労働市場の形に至ることでしょう。

これは実に大きい変化です。というのも、物価水準が低く、名目賃金も低い国に住む人であっても、フランスやアメリカ、イギリスに住む人と同じ仕事をすることができるのですから。そうすると、雇用主からすれば安価な労働力が手に入るけれども、所謂その安価な労働者は高価な労働者とされるものよりも実質所得が高くなるかもしれないという興味深い状況が生まれるのです。

それはなぜか?それは、はるかに貧しい国では物価水準は名目賃金の比率よりも相対的に低くなる可能性があるからです。つまり貧しい国で雇われた人は安価な労働力として雇われるのですが、その労働者の生活水準自体は欧米での同等の労働者のそれよりもずっと高くなるという、非常に奇妙で全く新しい状況が生まれることになるのです。この現象には価格差が大きく関わっていることから、福祉の観点からも興味深い問題であり、全くもって新しい現象なのです。過去にこのようなケースはありませんでした。

最後に3つ目の点です。私は『資本主義だけ残った』の中で、ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)に対して比較的厳しい見解を示しましたが、今でもその立場は変わりません。しかしながら、パンデミック時にUBIがもしあれば、コロナ禍における所得支援の問題を国会に諮り、巨額の資金を人々に分配するという膨大かつ時間的なコストもかかる政治的意思決定を経る必要がなくなり、事態は大幅に落ち着いていたであろうことは認めざるを得ません。UBIであればそれを自動的に行えたのですから。ですからこの点は私もやや意見を変えた部分になります。もちろん5年周期にコロナのような異常事態が発生するなんていうことは御免です。なので100年に1度のペースであれば、UBIへの反対意見は根強く残るでしょうね。

*1: レセパセ (laissez-passer) / 渡航文書、人道的理由などから発行される緊急パスポートのこと

*2: 穀物法(Corn Laws) / イギリスで1815年から1846年まで施行された、輸入穀物に対して高い関税をかける法律。

*3: 『チリの奇跡』

*4: 『大分岐(The Great Divergence)』18世紀半ば頃からヨーロッパとアジアとの間で経済発展のパターンが大きく分かれていったことを指す言葉。

*5: プラネタリー・バウンダリー(Planetary boundaries)、人類が生存できる安全な活動領域とその限界点を定義する概念

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