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「何者かになりたい」と、なぜこんなにも、激しく思うのか。

なぜ、「何者かになりたい」と強く願う人が、こんなにも多いのだろうか。例外なく、僕もその思いを、心がちぎれそうになるほどいだく一人だ。おそらく、というか90%以上の確率で、その人は今の自分を「ただの人」だと認識している。他の同僚とくらべても平均的な売り上げしか叩きだせない営業マン、変わった職業には就いたがそれといって現実は変わらない絵師、夢を追いかけるがバイト暮らしから抜け出せないバンドマン。


目の前で取り組んでいることが平均的で、夢への道のりが進んでいるとは思えないとき、ある一定数は「何者かになりたい」と強く願うのだ。家族から一族の誇りであるように自慢され、友達から羨ましがられ、顔も知らないような他人から崇拝される。アマゾンレビューを見ると自分の出した作品が100レビューを超えて星が4.5。レビューを詳しく見ると「この本を読んでからわたしの腐ったような人生が変わりはじめたのです」。それを見て作品を出しつづけてよかったと泣きながら思う、著者。あるいは自分のバンドのライブを東京ドームで開催して、何万人もを収容できる会場が、人生の大切な時間を自分の音楽を信じて費やそうとしてくれるファンで埋めつくされる光景。そんなの見れたら「この瞬間に死んでもいい」と、腹の底から思えるのかもしれない。「何者」かになれたからだ。


僕が「何者」かになりたいと思いはじめたのは、中学生の時だ。当時ある自己啓発書を読んで、「想像すれば、その願いは叶う」といった一節を読み、まだ何もしらない僕はそれを信じた。プレミアリーグで得点王をとるサッカー選手にも、一部の批評家から絶大なバッシングを受けながらも芥川賞を受賞する作家にも、僕は想像すれば叶うのだと。純粋だった少年を、夢の虜にするには、十分な一節だったのだ。願えが、叶うのだと。


「何者かになりたい」と思っている人は、何者でもない自分を強く認識して、自己嫌悪に陥っている人もいるかもしれないが、心の底では、「何者かになれる」と強く信じている。自分の365日の努力がいつか実を結び、自分の夢は成功できると。でもそんなのは根拠がないのだ。中学生だった僕に「想像すれば、その願いは叶う」といった著者も、想像したけど夢が叶わなかった人々がいることを知っているはずだ。でも彼らは想像すれば願いは叶うと訴えつづけている。それは、心のどこかで無責任と知りつつも、「夢は叶う」ということを信じさせたいからだ。


根拠はないけれど、自分ならできると信じること。それは大変なことだけれど、できると信じることで、意味のわからない努力をこなせるし、強い出会いを生み出せる。でも、最初から自分を信じられる人なんていないと思う。すぐ信じられる人はいい意味でバカだ。バカになれない人は、今は信じられなくても、「自分を信じてみよう」と24時間の中で何回か思うことで、そしてそれを何年もつづけていくことで、気づいたらバカになれるのだ。

バカになれる日は明日か、10年後か、1週間後か、死ぬ前かもしれない。そんなのわからないけど、何者かになるには、信じられなくても、信じるしかないんだ。

#エッセイ #コラム

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