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春の星座に縋り付いて下から花火を見上げたら

母が死んだ。正確には、母のような人が死んだ。生みの親でも育ての親でもない。二十歳の頃に出会い、社会に上手く溶け込めない私に、生きる術を教えてくれた。どこに行っても生きていけるようにと、それはまぁ、厳しく。小鳥が生まれて最初に見たものを母と呼ぶように、社会に出たばかりの私にとって、そういう意味で母のような人だった。

4月の末。晴れた朝に電話で聞いた訃報は、自分でも驚くほど、冷たく乾いた響きだった。亡くなったらしいよ、と主語のない報告に、誰が、と返したことだけ覚えている。最後に会ったのは亡くなる2日前だった。虚しいことに、最期の会話は今でも思い出せないままだ。会話どころか、日を追うごとに顔すらも分からなくなっていった。数日前に握ったはずの手のひらは、あっけなく骨になった。

日常に彼女の姿がない分、現実を受け止める決定的な何かが、数日経ってもまだ欠けていた。空っぽの胃が、何か入れろとうなり出す。2日で2キロ落ちた体重だけが、心の打撃を示す唯一の数字だった。

分かっていた。食べなければお腹が空くし、夜になれば眠くなる。朝晩の寒さを感じれば、昼間の暑さに汗だってかく。トイレも普通に行く。朝起きれば体は重いし、足は動かない。そういう生き物としての生理現象の全てが、だんだん気持ち悪くなった。

救えなかったくせに平然と生きている自分が憎い。何もできなかったと悔やむことすら自分への贖罪のようで、食べることも壮絶な罰当たりな気がして、吐いた。胃が動く感覚に恐怖を覚えたのは初めてだ。鉛のような体を横たえると、眠りにつくかつかないか彷徨う意識の中で、棺の中の白い顔が手招きする。

「疲れてるんならやめれば?」

我に返った途端に、かっと空が赤くなる。数秒後に、鈍い破裂音が鼓膜を震わせた。カーテンを開けると、19時の真っ黒な空には赤い花が咲いていて、耳を澄ませばわずかに音楽が聴こえる。普段は人通りが少ないマンションの真下は、空を見上げる人と車でごった返していた。

4月の夜はまだ寒い。13度の風に乗って、火薬のにおいが鼻をかすめる。どこで覚えたのか、たまやーと叫ぶ男の子に応えるように、また花が咲く。今度は大きな緑の菊の花。思わずスマホを構えた。わぁ、と階下で歓声が揺れる。やめれるもんならとっくにやめてるよと、えぐり出した本音で首を絞めた。

赤色を吸った漆黒の空は、こげ茶のような朱色のような、汚いキャンバスになり果てている。形のない枯れた花の名残が、存在証明をするかのようにくゆりと漂い、火薬のにおいが風に乗って届く。

また花が咲いた。今度は金色のしだれ桜が5つ。見上げて笑い声を上げる人たちを照らし、その上に降り注ぐように散る。そのまま燃やしてしまえばいいのに、と思った。次の花を咲かせるために、白い光が1つ、東の空を昇る。

どうせ枯れるのに、なぜ咲くのか。
枯れるなら最初から、咲かなければいいのに。

「哀れな」

そうして嘲笑った光は、東の空の真ん中で、散り際を定めて止まる。そこか、とスマホを構えた刹那、画面の真ん中に捉えた光は1ミリだけ、また空に昇った。は、とこぼれた吐息で画面が揺れる。とらえ損ねた大輪の花は、レンズに収まり切らない。こぼれた残り火に手を振る間もなく次の種が昇り、止まる。そしてまた、1ミリ進んだ。哀れと蔑んだ誰かをからかうように、次も、その次も。目を丸くした私を指さして、重力に抗うように昇って、笑って、散っていくのだ。まるで、生きているように。

空が光る。風が揺れる。子どもが叫ぶ。遅れてやってきた鈍い音が、どん、と心臓をたたく。キャンバスをなぞる煙の香り。濁る空。揺れる残り火の、聴こえるはずのないジリジリと燻る音が、そこかしこで響く。3秒にも満たない。なのに、消えない。じわじわと身体を侵食する何かをかみつぶして、今度は自分を嘲笑った。