安田小百合

躁うつ病歴16年。30歳直前で「中程度の躁うつ病」と診断され、即開放病棟に3か月入院。…

安田小百合

躁うつ病歴16年。30歳直前で「中程度の躁うつ病」と診断され、即開放病棟に3か月入院。入退院を繰り返し、電気けいれん療法で症状がかなり良くなる。今は2か月に一度の通院と毎日の服薬で上手に共存。建築士の旦那さん「窓」「枠」という名の猫たちと暮らす。診断前後、今に至るまでを発信中。

最近の記事

咀嚼

父には5歳年下の弟がいる。 東京の三流大学を出、地元の三流企業に就職している。 生前贈与で実家から少し離れたところに、祖父母に家を建ててもらった。 それにも関わらず、私が住む「自分の実家」に毎日夕飯を食べにくる。 弱いくせに酒も飲む。飲むと気が大きくなるのか、普段気が小さい分、たまっている鬱憤を私に向かって吐く。 内容は、母のことや、私の容姿のこと、私が受験しようとしている高校のことなど。 弟の吐く言葉に真実などないし、当時30過ぎたいい大人が10代の小娘に暴言を吐くの

    • 菜箸

      自分の知らないところで、ばい菌はすでに体内に入り込んでいた。 祖母は16時半くらいから料理の用意を始める。18時前には風呂に入り、晩酌をし始める父のため。 酒に酔うと癇癪を起す祖父を反面教師に、父は空瓶に一定量の酒を注いでそれをちびちび飲むのが習慣になっていた。 祖母が料理を始めると、私は気になって仕方がなかった。 ジュウジュウと何かが油と一緒に踊る音、グツグツと何かが煮崩れる音。 どのタイミングで何を切るのか、どのようにしてそれを何で混ぜるのか、どのくらい前に洗った鍋で

      • 音楽

        グレープ「精霊流し」、世良公則&ツイスト「銃爪」、高田みづえ「硝子坂」、研ナオコ「六本木レイン」、安全地帯「ワインレッドの心」など。 当時母が良く聴いていた歌の数々。 緑の冷蔵庫の上に黄色のラジカセが置いてあった。掃除をしないから、油まみれだった記憶がある。そのラジカセは始終何かしらの音楽を流していた。 母は音楽が好きだった。家事を珍しくこなしているときも、流れている歌と一緒に歌ったり、鼻歌を重ねたりしていた。また、鉛筆で絵を描いたり、帽子やセーターを編むのも得意だった

        • 掃除

          まだ母がいた頃から、私以外は掃除の苦手な人間ばかりだった。 私以外は、と言っても私自身まだ潔癖症だったわけではなかったし、綺麗好きの自覚もなかったが、私以外は片づけをする人間がいなかったというのが正確な言い方になる。 キッチンと2つ部屋があるだけの小さな借家に4人で住んでいた。 流し台にはいつも洗っていない皿が置きっぱなしになっていたし、コンロには焦げがたくさんついていた。 洗面台がなかったので、キッチンで歯を磨いていたが、歯ブラシが入れてあるコップにはいつも濁った水が張っ

          無視

          私が通っていた小学校は、4年生になるときにクラス替えがあった。 クラス替え後、私を含め3人のグループが出来た。 一人は保育園からの幼なじみで今でも毎年誕生日プレゼントを贈り合う仲。もう一人はリーダー格の気の強い自己中心的な子だった。 リーダー格の子は、自分が真ん中の位置に座っていないと気が済まない、話題の中心にいないと機嫌が悪くなる、気に入らないことがあると人を簡単に無視する、など問題だらけの子であったが、私と幼なじみはそれに声をあげられず、グループ結成から約2年間は人知れ

          部屋

          祖母の「頑張って生きていきなさい。」は言い換えれば、愛情をかけているつもり。だが、私にとっては非常にわかりにくく、伝わりもしなかった。 しかしながら、周囲の人間には祖母の思惑がなぜか伝わり、周囲の評価は「おばあちゃんがいてくれてよかったね。」というものが大半。 事の始まりから私が19歳になって実家を出るまで、ずっと大人たちが主役の生活だった。改めて思い返してみても、誰も私の心の内を覗こうとした者はいなかった。 母がいなくなって1年もたたないうちに、父の実家に移り住むこと

          祖母

          母がいなくなって約半年。 父は出張が多い仕事をしていた。忙しい中、1回だけ豚汁を作ってくれたことがあった。それはソースが隠し味らしかったが、実際はソースの風味が全くしないおいしい豚汁だった。朝は食べる習慣がなく、昼は給食。 夜の食事は主に祖母が、雨の日も雪の日も徒歩5分の父の実家から通ってきては作ってくれた。 祖母は優しかったが、恩着せがましかった。そして「母親の鏡」のような人だった。 「母親にとって子供は永遠に愛すべき存在。いつまででも手をかけてあげたい。」そんなこ

          手紙

          ある日、母が珍しいことを言った。 「近くの公園にピクニックに行こう。」 家事が苦手な母はスーパーでお弁当を買った。姉はお菓子を買ってもらって嬉しそう。私は、家にあったバトミントンのセットを持って行った。お弁当は好物の焼きそば。 それが最後の楽しかった思い出。 何日か後の土曜日。姉が風邪をひいて学校を休んだ。病院から帰ってきた姉を寝かせてから、母は普段着から一番のお気に入り、緑のワンピースに着替え始めた。背中のジッパーを閉じるよう私に頼んできた。 「どこ行くの?」 「

          これからnoteを始めてみようと思います。自分の病気「躁うつ病」に関することを中心に発信する予定です。お時間あるときに読んでいただけると嬉しいです。

          これからnoteを始めてみようと思います。自分の病気「躁うつ病」に関することを中心に発信する予定です。お時間あるときに読んでいただけると嬉しいです。