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つけめんヒストリ エピソード8


正安が一雄を訪ねる


正安が栄楽に入店して3年が過ぎた。
3年間で統制経済も緩やかになり、この商売もなんとか見通しができる世の中になっていた。
青木家の義兄弟たちは固い絆のもとにそれぞれ分離独立して商売を始める。
栄楽は6男保一が受け継いで、正安自身も諸先輩に続いて念願の独立を果たすべく毎日を忙しく過ごしていた。
そんなある日久しぶりの休日に、一雄に会いに出掛けることにする。
一雄は前年に上京し、墨田区の荒川にほど近い旋盤の工場で働いていた。

正安は工場にいた職人の一人に声を掛けた。

「すみません、あのー山岸君いますか」
「え、ああ山岸ですね、ちょっと待っててください。おーい山岸くん、お客さんだよ」
「え、お客さん、誰だろ」
工場の奥から作業着を着た一雄が出てきた。
中学を卒業して出てきたばかりの一雄なので、東京にそれほど知り合いがいるわけではない。
誰がきたのかと驚いた様子だった。

「あれっ兄貴」
「やあ一雄、元気か」
「どしたの急に」
「なに、ちょっと話があってきたんだ、忙しそうだね時間とれるかな」
「ああわかったちょっと待ってて、社長に言ってくるから。そうだこの道を    真っ直ぐ行った先が荒川で、土手があるからそこで待てって」

暖かく穏やかな春の日だった。
川の流れが緩く続く。
正安は土手に腰掛けて好きなタバコをポケットから一本とりだして火をつけた。
四方を見渡すと、東方に遠く霞んで筑波山らしき山が見える。
そしてふと思い出したのは故郷の千曲川だった。
清らかな水が流れ、川岸には鳥のさえずり、豊かな自然が広がる情景が思い浮かんだ。
もうしばらくすれば桜も咲くことだろう。
一雄と一緒に魚を釣りに出かけていた日のことを思い出す。
復員して直ぐ故郷の山ノ内町に帰り、療養のため母の兄が主の高山家で過ごしていた。
その時一雄家族は父国雄の遺骨と共に横須賀から帰郷して、この高山家で暮らしていた。
正安は戦争に出征して不運にも命を落とした軍人国雄を尊敬し、また幼くして父を失った一雄を不憫に思ったのだった。
一雄の母はるは病弱であまり働くことができず、家計は苦しく中学ではクラスの中でただ一人修学旅行に行くことができなかった。
担任の先生から費用を出してやるから一緒に行こうと誘われたが、それを断った。
東京にいた正安はそのことを後で知り、一言相談してくれればと悔やんだのだった。
10歳ほど年が離れていたが一雄を実の弟のように思っていた。
また一雄も正安を実の兄のように慕い、終生正安を兄貴と呼ぶことになる。
正安は東京に出てきた一雄を思い遣り、何かしてあげることができればいいが、今それだけの社会的立場にあるわけではない。
今の自分は身体一つでこの仕事をしている。
これから自分も自立する覚悟はできているが、一人で商売することへの一抹の寂しさと不安があった。

「兄貴ー、いやお待たせ、なかなか出れなくて」
「忙しい時に来て悪いことをした、すまない」
「いいんだよ、だけど今日は暖かくてとてもいい日だね、1日中作業所にいるから外の様子もわからないよ」
「ああそうだな、この辺りも環境のいいところだ」
「うん、あまり外に出歩くこともないけどね」
「仕事はもう慣れたか」
「ああもうだいぶ慣れた、なかなか部品を削るのが細かくて難しいよ、結構な技術が必要だよ」
「そうか、仕事も任されているんだな」
「まだ見習いだけどね、でも社長も先輩の職人さんもいろいろ教えてくれて良くしてもらってるよ。それより話って何?」
「ああ実は、俺も今度独立して店を持つことにした」
「ええっ決めたの、いつ?」
「遅くとも今年の秋頃にはしたいと思っている」
「ほんとに? すごいね兄貴」
「やはり人生はつくづく信用と修行だと思う、3兄弟たちも独立に賛成してくれている」
「そうかそれはよかった、よかった」
「それで実は相談なんだが、一緒に店をやってほしいんだ」
「俺が・・・兄貴と」
「ああ、今はまだ嫁さんももらっていないし、自分一人じゃ無理だ。これといって知り合いがいるわけじゃないし一雄が一緒にやってくれれば助かる。今の工場の仕事に慣れたのに申し訳ないとは思うが」

一雄は一瞬間をおいて答えた。

「・・・わかった」

大好きな正安から誘いを受け、頼りにされていることが何より嬉しく、迷いはなかった。
それに父国雄と共に暮らしていた横須賀時代から中華そばは好きだったし、戦時中も食べ物のない生活を経験してる自分にとって食べ物商売は魅力に映った。
しかし工場の社長からはしつこく引き留められた。

「なに、中華そば屋?おいおい何もそんなところに奉公に行かなくてもいいだろう、どういうことだ、そんなの若い男のやる仕事かよ。確かにうちは、労働時間も長いし作業も簡単じゃない。でもようやく1年経ってせっかく仕事覚えたのに、今辞めるのは勿体無いだろ」
「ええ、それでもどうしても世話になった兄貴と一緒にやらなきゃならないんです、申し訳ないです」
「おいおい、今お前給料のほとんど田舎のおっかさんに仕送りしてんだろ、給料のこともちゃんと考えてんのか、中華そば屋で大丈夫なのか」
「そのことも考えてあります」

一雄の意志は固かった。
敬愛する父の死と終戦を体験して、子供の頃からの軍人になるという生涯の目標は消えた。
病弱の母と幼い妹を支え、何をするにしても強く生きていかなければならない覚悟はできていた。


一雄阿佐ヶ谷入店


昭和26年春、一雄は阿佐ヶ谷栄楽に入店する。
慣れない仕事でお客さんや正安に迷惑をかけないように出店に合わせて、一通りの仕事を覚えなければならない。
店主の保一は一雄に会うと、早速仕事の指示をした。

「体格もいいし力ありそうだから、そばづくりやってもらうか」

最初に任されたのはそば作りだった。

「腰を入れて、こうやってやるんだ」

正安が実際に手本をしてみせた。
大きな鉢に小麦粉、かん水を入れ、腰を使って身体の重さを利用して手で捏ねる。
うどんにねかし工程があるように、中華そばにもある程度の水分浸透は必要だった。
十分な生地ができるまで捏ねるのは大変な作業で、小麦粉の粒子に満遍なく水分がいき渡り、生地をしっかり繋がった状態にしなければボソボソのそばになってしまう。

「圧延するときは指を挟まないよう気をつけろ、寝ぼけたりしてると怪我するからな」

捏ねたそば生地をプーリーと呼ばれる手動式の圧延機で麺体にし、その後これに歯を入れてそばに切り出す。
鉢でそばを捏ねてさらに手でハンドルを回して圧延機を回す作業で、手はクタクタになる。
朝は夜明け前に起きて製麺の後に出前の丼を下げに行き、皿洗いをして配達に没頭する。
仕事が終わるのは終電後、睡眠3時間の労働だった。
入店して一ヶ月経ったが想像していたのとは全く違う労働で、異なる環境に戸惑っていた。
旋盤工の作業所をやめて、はたして正解だったのだろうか。
そんな時、ふと故郷の母の実家で一緒に暮らして聞いた正安の奉公時代や軍隊で話を思い起こす。

正安は大正13年、長野県下高井郡山之内町横倉で承応時代から続く農家の五人兄弟の三男に生まれた。
家業は文久元年の大干ばつ災害で、灌漑用水事業を余儀なくされ、以後の家計は厳しくなっていった。
小学校時代の成績は優秀で、本人はそのまま中学へ進学できると思っていたが経済的理由でそれも叶わなかった。

「なんで自分の方が彼らより成績がいいのに中学へいけないんですか」
「坂口、こういうこともある。そんな共産党員みたいなこと言うな」

自身の境遇を泣きながら担任教師に訴え、窘められたという。
正安は幼くして思うようにはいかない人生の儚さを知ることになる。
知り合いの伝手で小学校卒業と同時に上京し、日本橋の蕎麦屋に就職した。
奉公時代は腹掛けと法被と鉢巻で出前の毎日だった。
一雄は正安の少年期の苦労、そして今も毎日働きづめで仕事している姿を見ていると今の自分の苦役など、たかが知れていることかもしれないと思うのだった。
今更兄貴に対して愚痴を言っても始まらない。
前を向いて自分も早くこの道で一人前にならなければという志が湧いてくる。
これから二人で店を立ち上げようとする時に、こんなことでへこたれていられないと思うのだった。

栄楽の仲間達


「捨てちゃダメだよ」
一雄が仕事終わりに掃除をして、客の使った割り箸をまとめてを捨てようとしたら竹雄に注意された。
竹雄は後に新井薬師に丸長を暖簾分けする同郷の先輩の若者だった。

「えっ、なんで」
「乾かして使うんだよ」
「何に」
「火種が足りなくなったんだ」
「火種?」
「ああ、コークスに火が移るまで時間かかるから割り箸は必要なんだよ。鍋の湯を沸かすのに使う。」
「なるほどそうなんだ、わかりました」
「そうだ、それから一雄ちゃん、丼下げてくる時に焼け跡で使えそうな廃材あったら持ってきてよ」
「ええ結構瓦礫が残ってますね、何か見つけたら持って帰ります」
「それからさ、モクもあったら拾ってきてよ」
「ああわかりました、駅前とかは結構落ちてるようですね、拾ってる人もいました」
「うん駅前は待ち合わせが多いからな、気がついたら頼む、草あつめて紙で巻き直せばまた吸える」
「そうですね」
「だけどあんたは酒も煙草もやらないし、ほんとに模範青年だな」
「飲めないんですよ」

竹雄は自分の店を持ってからも営業中に焼酎を嗜むぐらいの酒好きだった。
一雄が店に入りたての時、親方の保一から酒を勧められた。
しかしそれまで酒は嗜んだこともなく、自分でも飲めるのかどうかも分からない。

「まあ一杯飲めよ、固めの杯だ。男なんだから酒ぐらい飲めなきゃダメだ、ぐっといけほれ」
「わかりました。いただきます・・・ぐふうぅ」

湯呑み茶碗に焼酎を入れ言われるままに飲んでみた。
呑み終わった後に急に意識が低下してきた。
酩酊してそのまま倒れて動けなくなってしまった。
飲んだはいいが急性アルコール中毒に罹った。

「はあはあ、うーはあはあ」
「どうした」
「おい大丈夫か、一雄!一雄!」
「水を飲ませた方がいい」
「一雄、水を飲め水を、大丈夫か?」
「はあはあ」

「一雄は下戸なのか」
「ええ、そうみたいですね」
ぐったりしたままの一雄を抱えながら心配して正安が言う。

「いやぁーびっくりした初めてみたよ、こんなになっちゃうんだな」
「これからは飲ませない方がいいようですね」

正安は一雄が酒にあまり興味がないことは薄々知ってはいたが、実際に飲むまでこんなことになるとは思ってもいなかった。
青木3兄弟といえば泣く子も黙る猛者揃いで、酒の飲み方は半端でなかった。
保一の早死にも酒が原因というのも否定できなかった。
兄弟たちと一緒に仕事をして、酒を呑み交わし、唄い、故郷の昔話を肴にしばし時を忘れる。
その時間は正安にとっては何より大切なものだった。
しかし酒の飲めない一雄には理解を示していた。
一雄は保一、正安、竹雄と酒好きの男たちに囲まれて、酒でもまれるはずの生活だったがそうはならなかった。
後年丸長のれん会の男たちの中でも、一雄は酒をいっさい飲まない浮いた存在になった。
体質が酒に合わないのは仕方なくとも、飲まずに人と付き合えるのは一雄の人柄で、その後の人生でもそれは変わらない。
宴の付き合いは好きで、いつもニコニコして皆の話を聞きながら最後まで付き合う。
酔いたいという気持ちがなくとも、一雄には人とお互いに分かり合える前向きで、温かく交わることのできる個性があった。
その反面仕事に対しては妙に生真面目であった。
郷里山ノ内で中学時代に同級生だった永福町栄龍軒の下田和泉によると、「あいつはくそがつくほど真面目だった」ということである。
元来が真面目な性格だったので、飲めないものは飲めないと断り続けた。
それ以来一雄には飲ませない方がいいというのが宴での決まりごとになる。

しばらく経って新人が入店した
後に中野駅北口に和風つけそば「栄楽」を出店する竹節延夫だった。
延夫は一雄よりも年は上だったが、先にこの道に入った一雄を立てて「一雄さん」と呼び続けることになる。
延夫もそのユニークなキャラクターで丸長の仲間から愛され「のぶちゃん」と愛称される。
人も増えたことで店にも出られるようになった。
正安は一雄に鍋からそばを掬い上げる手捌き、スープ作りなど一通りのことを一から教えた。


つけめんの原型


「いらっしゃいませ」
「中華そば二つね、おっ、初めての兄ちゃんだね」
「はい宜しくお願いします」

カウンター向こうの客からから気軽に声を掛けられる。

「どっからきたの、まだ若いじゃない」
「信州です」
「親方たちと同じだな」
「ええ、同じ故郷の出身です」
「幾つになるの」
「17です」
「そうか若いね、頑張って」

一雄がそばを沸騰した鍋に入れた。
そばは細くなく太くもなくちょうどいい。
タイマーはない。
茹で時間を測ることはなく、そばの柔らかさを手の指で触れて確認する。
湯の中で泳ぎ回るそばを掬いあみで一人前ずつ集めて丼のスープに滑り込ませた。

「お待ちどうさまです」
「おお、ありがとよ」

投げ込んだ2人前のそばの量が多かったせいか鍋の中には余分な量のそばが残った。
掬い網に合わせて載せるそばの量が一人前で、秤にかけていちいち人数分を茹でるわけではない。
製麺過程で、そばは手でちぎって切断するので長さだったり重さや太さを測って管理することもない。
鍋に入れるそばの量は大体の勘と目分量でするが、足りなくなると困るので気持ち注文よりも多めの麺量を入れることになってしまう。
そうすると最後にどうしても余分な麺が残ってくるというわけだ。

「兄貴そば余っちゃったよどうする」
「どうするって捨てられないから、後で食べるよ。水道で洗って丼に入れといてくれ」
「ああ、勿体無いものね」
客たちは帰って店には誰もいなくなった。

「ちょっとそば腹空いたから先食べるわ」

正安は傍にあったお茶の湯呑みに醤油タレを少し入れ、スープと葱を加えた。
湯呑みは当時の店にはどこにも置いてあり、客にもお茶を提供していたのである。
この湯呑みに先ほど余って丼に盛られたそばを浸し、日本蕎麦の盛りそばの要領で食べ始めた。

「ちょっと何か足りないのは辛味かな、一味入れてあと酢を少々だな、これでもりそばだ」
「へーうまいの?」
「ああ、いい味してる」

伸びたそばでも無駄にできない。
沸騰した湯でさらにそばを熱くしてスープに入れるのでは、ふやけ具合が度を越してしまう。
冷水で冷やしておいておくのがキモだった。
試しに一雄も真似をすることにした。
この湯呑みもりそばは一雄にとってもありがたい賄いだった。
客が来店して数人前のそばを鍋に入れると必ず幾らかのそばが残る。
この残りのそばを伸びないように水で締めて自分達の賄いで食べていたのだった。
伸びたそばでもご馳走で、決して捨てることはない。
一雄は一番若く、食欲旺盛なため長時間労働の環境で三食では足りない。
そんな時にはこの湯呑みそばは役に立った。
後に中野大勝軒でお品書きになる特製もりそばの原型だった。

店の前は駅前広場になっていて、そこには輪タクと呼ばれる三輪車のタクシー数台が停まっていた。
自家用車はほとんど見かけず、時折トラックが目に付いて交通量は少ない。
中杉通りでは走る輪タクをよく見かける。
駅前広場から線路沿いに荻窪方向に歩き、路地を入ると映画館阿佐ヶ谷オデオン座があった。
一雄は出前で通るたびに上映している映画のポスターが目に入り、いつも気にしていた。
月一度の休みの娯楽といえばやはり映画だった。
阿佐ヶ谷オデオン座は2年前にできた東亜工業の最初の映画館で、中央沿線でも早くから営業していた映画館の一つだった。


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