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「憧れ」という呪い 『ルックバック』

これはどちらかというと備忘録に近いので、考察とかレポとかを期待してクリックしていただいた方の想像するものではないと思う。
なんというか、自身の考えをまとめるためのメモみたいなものだ。

先日劇場で、話題作『ルックバック』を観た。
久しぶりに友達と並んで劇場で映画を見るのはとても楽しみで、思ったより休日のイオンが混んでいて上映に間に合うかハラハラしたのも、ちょっと楽しかった。
けれど映画そのものについては少しだけ不安だった。
漫画であらすじをすでに知っていたし、なんなら最初映像化にはちょっと疑問を持っていたし。
本当に感動できるのかなとか。新鮮に楽しめるかなとか。

なぜなら、『ルックバック』は漫画で体験するのが一番だと決めつけていたから。

読者の打ち込んできたもの(作中では絵のような)はそれぞれ、ジャンルも、熱量も、費やしてきた時間も全く違う。そんな各々の体験と照らし合わせながらこの話を読むには、咀嚼のペースを勝手に決めることができる漫画というメディアが最適だと思ったからだ。事実今も、本作を「読むもの」として想像している。

ただ結論から言うなら、映像化に対する不安はすべて杞憂に終わった。
漫画で本作を体験したとき、『ルックバック』という話を、『自分の体験』という参考書(あるいは辞書)を片手に読み進めている感覚だった。
だから登場人物に何か動きがあれば、自身の体験を引き出して、落としこみ、実感のある「共感」にしようとする。
「あー、俺もそんなことあったな」って。
みんな持っている参考書や辞書が異なるのだから、立ち止まるシーンはまちまちだ。
つまり漫画『ルックバック』は「藤野を通して自分を省みる」作品だったと思う。

対して映画『ルックバック』はどうだったのか。
これは決して言い過ぎではないと思うのだけれど、観客全員が「藤野になることを強いられている」作品だったと思う。
やはり劇場のスクリーン、音響、そしてアニメーションはすごい。
藤野の感情が、自身のフィルターを通さず直接入力される。

だから上映中、

学級新聞の4コマでクラスのみんなからちやほやされていたこと、
「素人に描けますかねえ」など調子に乗った発言をしたこと、
自分よりはるかに絵の上手い人間を知り、挫折したこと、
それでも負けたくなくてのめりこむように絵を描いたこと

なんかを鮮明に思い出した。いうまでもなくこれは存在しない記憶である。

僕はもちろん絵なんてまともに描いたことはない。
創作活動すらまじめにやってきたか怪しい。
その他の活動だって、藤野や京本に及ぶものなんて一つもないかもしれない。
けれど創作する人間なら大きさは違えど、必ず感じたことのある焦燥の中の熱量。
それを藤野と同じ大きさで疑似体験できるのがこの映画だったんだろうと思う。

そんな風に藤野の視点に立たされることを強いられた結果。
「憧れ」に対する考えが変わった。
藤野は京本に対する嫉妬にも近い憧れから、漫画家になるほど画力を磨いた。
京本は藤野に対する純粋な憧れに救われ、外の世界に出てきた。
映画を見るまで、「憧れ」は二人にとって救済だったんだと思っていた。

しかし、藤野の視点に立たされ、京本を藤野の目から見てしまったこと。
そして気づいてしまうこと。
それは京本が本当に藤野、つまり自分を天才だと信じていることだ。

京本は本当に「絵以外にない」人間だ。
それは才能とも言えるし、芸術家らしくて、浮世離れしていて魅力的に思える。
そんな「絵」の概念のような人間が、どうやら自分のことを同じく「絵以外にない」人間だと思っている。

漫画で読んだときには、どちらかというと京本が天才、藤野が秀才という描かれ方をしていた。
自分のペースで読み進めるうちに忘れてしまっていた。

二人の初対面。
漫画でも見たはずだったそのシーンでたしかに京本は言った。
「藤野先生は漫画の天才です!」
映像で見ることで、藤野としてそのシーンを見ることで、真の意味で理解できた気がする。
このセリフは、思っていたよりもっと京本の心の底から飛び出したものだった。

この瞬間、藤野のこれからは決まった。
もう創作の螺旋から降りることができなくなった。
つまり「憧れ」は救済ではなく、呪いだったというわけだ。
しかし、それがまったくもって悪いことだったとは思わない。

終盤でおこる本作最大の事件。
観客は藤野とともに、感情を振り回され、心底くたびれる。
漫画と違って映画では、残酷に、こちらの許容量関係なしに殴りつけられるのだから、たまったもんじゃない。
我々観客は、藤野と感覚を共有し、もう創作からは離れようとする。
つらく、苦しくも、大好きだった創作だが、
「描いても何の役にもたたない」
から。

そんなとき、目に入るあの日の京本の半纏。
「藤野先生は漫画の天才です!」

心理描写として映像の色彩を鮮やかにする演出。単純だし、よく見られるものだが、アニメーションならではの演出で本当に好きだ。

そしてこの京本の言葉は、呪い(まじない)として、創作の螺旋を歩く自分を支えてくれる。
だからこそ、藤野は、我々は立ち上がれた。
そして藤野がもう一度マンガに向かったように、観客もそれぞれ立ち向かうべき自分の世界に、背筋をのばして帰っていくことができたのではないかなと思う。

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