オイラのグルメ論~料理における「気のせい」について

いつか書きたいなぁと思っていた料理と「気」についての思いがあって、なかなか書くきっかけがなかったのだけれども、この前料理研究家のリュウジさんがマックの紙ストローでドリンクを飲んで「この紙ストロー美味しくない」「これならストロー無い方が旨い」とご発言されたというのを見て、「うお!オイラが書こうとしてたことと同じことを料理研究家が言ってる!」とびっくりしたのだ。それでオイラも前から書こうと思っていた料理と「気」の関係を書くぞ!と思い至った。

いつものことながら長い上に序論と本論があるので、おいそぎの方は本論からお読みいただきたい。

<序論>

~グルメ活動について~
グルメ活動についてはオイラはだいたい3つに分類している。

①部族の儀式としての食事~貴族ビジター券としての食事

Ⅰ部族の儀式としての食事
グルメ活動というとこれがまずメインである。
クリスマスのディナーから結婚式のパーティーから、神社の直会、法事の後の食事会まで、はたまた自分へのご褒美、まで。
食事は長い歴史の中、人類のあらゆる民族で、祈祷や舞踏とともにCeremonyの中の1構成要素をになってきた。
そのCeremonyによって部族の一員であることを証明し、確認するのである。
なぜかはわからない。多分深掘りすると進化の過程での哺乳類の傾向、みたいな進化生物学の話しになると思う。

Ⅱ貴族ビジター券としての食事
王族・貴族は高貴な出自であることの証明として豪華な食事会を催していた。(いる)
そして「貴族(みたい)になりたい」というのは人類に古くからプリセットされている動物的本能のようなものである。
なぜかはわからない。多分深掘りすると進化の過程での霊長類の傾向、みたいな進化生物学の話しになると思う。

とにかく上記の理由から人は常に貴族になりたがっている、ということを前提にして話しをすすめたい。
昔だったら貴族や大名の食事の場に平民が入る、ということはあり得なかった。
ところが現代においては、貴族の称号を持っていなくても、高額なレストランにいくことにより、貴族に「なったかのような」雰囲気を味わうことができる。
「会員制クラブ」というのもこの貴族社交界ワールドの下位互換である。
要約するならば、高級レストランで食事をするということは「数時間は貴族になれますよ~」というビジター券なのだ。
もちろん1流シェフによる1流の食材の料理だ、目ん玉飛び出るほど美味しいのは間違いないだろう。
その場合においても「我輩は貴族である→だからこういうすごい美味しい料理が食べられるのである」という論理の順番が重要で、「ウチら貴族だよ」アピールがまず先なのだ。
その後に料理の味や話しがくっついてくる。
上記の「我輩は貴族である→だからこういうすごい(美味しい料理が食べられる)のである」の(美味しい料理が食べられる)の部分を(宝石が身に着けられる)(お城に住める)に互換可能なこともさきほどの「ウチら貴族だよ」アピールがまず先という証明になっている。

②その場所でしか食べれないグルメ活動
これはだいぶ説明がわかりやすい。海外に行った時そこでしか食べれないものを食べる。
北海道の海沿いで獲れたばかりの海鮮丼を食べる、とかだ。
もうひとつ、ちょっとわかりにくいが、ラーメン二郎とか吉野家とかサイゼリヤもその場所でしか食べれないのでこの②に分類される。

③手作り系・ライフハック系グルメ活動
これは①②以外の、家でつくるもの料理すべてである。

家で粉を一から打つとか、庭で獲れた野菜を食べるとか、なんかわからないけどオリジナルな方法でしばらく置いとくと美味しくなる技とかである。おばあちゃんの~系はすべてこの③だ。

自分しか知らない(やらない)味変をするとか、サッポロ一番みそ味にスライスチーズとカレー粉をかけるとムチャ美味いとか、プリンに醤油をかけるとウニ味になるとか、のライフハック系やモンド系もここに入る。

※たこ焼きパーティー、餃子を皮からみんなでワイワイつくる、手巻き寿司をみんなでワイワイつくる、流しそうめん、バーベキューなどは家でのてづくりだが、①ーⅠ結束を強める部族の儀式に分類されるので、この③には含まれない。

グルメ3分類を整理したところで、では本論に入ろう。

<本論>

タイトル~料理における「気のせい」について~

今回取り上げたい気のせいは上記のグルメ分類の③に分類される。
何が言いたいか結論を先に言うと
『空気の口腔内における接触、および接触面の位置が味を左右する』
ということである。
例は驚くほどたくさんあるので、わかりやすいものからあげていこう。

まずわんこそば(皿そば)だ。
ざるそば、もりそばなど色々あるが、大きなひとつの皿で食べる。食べれる。当たり前だ。
だが、わんこそば(皿そば)では小さい皿で食べる。
これは大きなひとつの皿で食べれるものをわざわざ小さい皿で食べているのだ。
なぜかというとその方が美味しいからだ。
小さく盛るとその分、そばが置いてある間(食べられるのを待っている間)そばが空気と接触している面と時間が多い。そして口に入れる時ももともと盛りが少ないのでそばと一緒に空気も口に入れる。結果美味しくなる。
何じゃそりゃ?と思うかもしれないが、事実である。冒頭のタイトルで「気のせい」と書いたのはそのためである。

ひとつの例だけではなんじゃそりゃ?だと思うので次の例をあげたい。
焼き鳥だ。串で食べると美味しい。これは空気だけの要素ではない。
口に入れた時に、口内の鶏を美味しく感じる舌の箇所に鶏肉がうまい具合に接触するからである。
居酒屋で時々、焼き鳥をたべやすくするため、全ほぐしする、という場面に遭遇したことがあると思う。その時美味しいことは美味しいけど、なんか焼き鳥と味違うなぁと思ったことはないだろうか。あれは焼き鳥が小さい食べ物になったことにより、串で食べた時にあたる口内箇所ではなく、小さい食べ物を食べる時にあたる口内箇所に味わい場所が変更されているためである。
ケンタのチキンも骨ありとなしで口内であたる角度が違うので、肉の部位の違いもあるが、骨ありの方が美味しい口内箇所にあたっている。そういう意味ではセブンの唐揚げ棒は理にかなっている。

アイスクリームのカップタイプも、普通のスプーンよりも空気接触面の多い「おまけでもらえる平べったい木の棒」の方が美味しいので是非意識して味比べをしてみていただきたい。

これもまた「気のせい」である。

では次にりゅうじさんも書いていたマックのコーラの例にいきたい。
これは「気のせい」というよりも口内の接触角度である。
コーラが缶より瓶の方が美味しいというのは昔からよく言われていた。
これも瓶と缶ではグビっと飲んだ時の口内での場所が違う。
缶だと口の下の方にくるのが、瓶だと舌の奥の方にいく。
そして瓶と同じぐらい美味しいのがマックのストロー飲みだ。
これもストローによって液体が口の奥の方に直接いくので美味しいのである。
紙ストローはストローで液体が口の奥にいくという点では同じだが若干違う。これが美味しくないのは単純に舌で紙を食べてるような状態になっているからだと思う。
まず液体を味わうより先に「紙を食べてる」感じになってしまうわけだ。

あとこれも完全に気のせいだが、ラーメンなんかは割りばしの方が美味しい気がする。
おそらく塗り箸だとかすかにスープが滑っていると思うのだが、割りばしの場合は汁をある程度しっかり保有していて、麺をつかむたびにその汁と麺がからむからではないかと思っている。

そしてジャパンと言えばおにぎりと寿司だ。
これも昔の日本人が上記のような「気のせい」を熟知していたとしか思えない。
どちらもお茶碗とお箸で食べる時とは違う絶妙な角度で口内に入り美味しいところにあたっている。

ということで「そんなの気のせいじゃないの?」というグルメ論でした。

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