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大阪の生活史

 『大阪の生活史』献本が届いた。150人の聞き手が、大阪に関係する150人の語り手に話を聞く、という一見「何やねん」というプロジェクトが実現し、本として12/1に出版された。献本がなぜ届いたかと言うと、そりゃ自分が聞き手として参加していたから。
 
 話を聞いたのは、大阪に住む日本人ムスリムのアリさん。大阪市西淀川区のモスク「大阪マスジド」の広報をやられている方で、何度かテレビにも出ているので知っている人もいるかも。

 モスクとそこに集うムスリムを記事にする過程で知り合い、その流れでアリさんの半生を聞いたのだけれど、仕事のために聞く「本筋」よりも「余談」の方が段違いに面白かった。「本筋」を実際に記事にもしたけれど、「余談」の方が実はアリさんの人生の「本筋」ではないんだろうか、とモヤモヤしていた。そんなタイミングで『大阪の生活史』プロジェクトが始まり、もう何のためらいもなく手を挙げた。そして選ばれた。

 改めて話を聞いたのは去年の今頃、2回に分けて大阪マスジドとその近くのムスリムが集まる部屋で。時間は計5時間ほど。聞きたくもない自分の声をICレコーダーで聴きながら書き起こしたら4万字になった。

 どうでもいいけど、録音した自分の声を聞く恥ずかしさって何なんだろう。何で恥ずかしくなるんだろう。プロジェクトの発起人の岸政彦先生は「慣れる」と言っていたけど、繰り返したら慣れるんだろうか…。無理やで…。

 閑話休題。問題は書き起こした4万字を規定の1万字まで減らすこと。一度、アリさんのこれまでの人生をちゃんとなぞって全エピソードを満遍なく紹介するよう1万字に圧縮してみたのだけれど、なんかおもんない。激烈におもんない。アリさんが送ってきた激烈な人生の「濃さ」が壊滅的なまでに薄れてしまっている。

 参加者対象の説明会で岸先生は「語りの編集が一番難しい」と言っていた。そして満遍なく紹介しようとして全体を圧縮するのではなく、「エピソードごとに削る」ことが肝だ、とも。

 これは難しい。少なくとも自分は「語り手がそれぞれ重要だと思っている人生のエピソードを聞き手でしかない自分が『これええやんけ、採用』もしくは『これいらん』と取捨選択してしまっていいのだろうか」という申し訳なさがあった。

 しかしこうも思った。この思いは「聞き手<語り手」という非対称な関係性を勝手に頭の中でデッチあげてることから来ているからでは、と。

 「語り」というのは、語り手と聞き手の双方が織りなす空間において成立する。その場においては、語り手と聞き手の双方に優劣は生じないはず。「語り」という舞台空間において、聞き手は「演者」たる語り手の語りを引き出すもう一人の「演者」であり、さらにはその声を「観衆」に届ける役割を担う必要不可欠な存在である。「語り手」と「聞き手」はどちらが欠けてもいけない、非対称とはかけ離れた、権力関係が生じ得ない間柄ではないか。ジャズで言うところの即興、インプロビゼーションから生まれるのが「語り」ではないか!

 こう考えてからは、「編集」の作業はめっちゃスムーズ。「アリさんの『語り』は自分が誰よりも届けられるのだ」という確信が持てたから。語りの「肝」を掴めるのは、実際に聞いた自分以外にはありえないし、「もう一人の演者」として責任感を持ち、アリさんの「声」を届けるため力を尽くしたかったし、そのために自分にしては珍しく努力した、と思う。

 その結果、アリさんのどう考えても面白い語りを損なわないような面白い原稿を書くことができた、と自負している。「聞き手」としての責任感マジ大事。

 ちなみに、去年『大阪の生活史』プロジェクトをアリさんに説明して、語り手として協力してもらいたい旨を申し出たところ、アリさんは快諾してくれてひとこと言いました。

 「ハディースやな」

これを聞いてその意味と心意気が分かる人、みんなマジ友達。

 追伸。『大阪の生活史』の1159〜1166ページに載ってるから読んでね。

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