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8,000キロじゃ足りなかった恋と普通の“幸せ”の香り


「距離をおきたいと思ってる」

彼が言った。
いや正確には口で告げられたのではなく送られてきた。

思考が追い付かず、何度も読み返した。
が、何度見ても同じ文章だった。
読み間違いではない。


なにかの冗談かと思った。
わたしと彼の間には既に8,000キロの距離があったからだ。
物理的な距離ではなくて精神的な距離のことを言いたいのだろうか。
いやだとしてもよく分からんけど。

精神的な距離ってなんやねん。

心の中でツッコミをいれる。

それにしても遠距離恋愛で。しかも国も跨いで。時差も16時間あって。

それでまだ距離をおきたい?

「月にでも行けと?」

今度は口に出していた。




恋人から「距離をおきたい」と言われたのは二度目だった。

大学生の頃付き合っていた彼に言われたのが最初。同級生の彼で、お互い就活中だったし、それぞれの将来について向き合うのが精一杯だったから会わない期間を設けることにまだ納得はできた。
結局別れることになってしまったが。

正直、距離をおきたいと言われると別れたいんだろうなあと思う。別れるための口実であり、そのためのワンクッションでしかない。いわゆる準備期間なのだ。
そこまで分かっていても、それでも嫌いになれないのがわたしという人間だ。悲しいことに。

そもそも、告白は彼からだった。同じ職場で働いていて、歳が近い人だった。そんな彼が語学留学をする直前のことだった。

3ヶ月前に5年半付き合った人と別れ、わたしはわたし自身のためだけに生きようと必死になっていた。
今まで恋人に尽くしていた時間を持て余しつつ、自分のことに費やせることに半ば感動していた。
しかしながら、ぽっかり空いた時間はやっぱり寂しく、そのタイミングで好意を寄せてくれた人と付き合いだした矢先だった。

「俺と付き合えばよかったのに」

ずるいと思った。

わたしがだれかのものになってからそんなことをいう人はずるい。

話の合う人だった。
話題が尽きず、ずっと喋っていられた。もっと早く出会いたかったとか、もっと留学で離れてしまう前に仲良くなっておきたかったとか、わたしだって思っていた。

「確かに。あなたと付き合えばよかったかも」

その時のわたしはいたずらに笑って、ずるい人にはずるい返しをした。

終電を逃しても喋った。終電の時間は調べたはずだった。
帰らなければ、と思う自分と、どうにでもなれと思う自分が混在していた。
付き合い始めたばかりの人への罪悪感を感じる反面、同じ職場の人とはいえ他の男と飲みに行くことを話したのに止められなかったしいいかとも思った。
本当、ずるい女だ。

「あなた以上の人にこれからの人生で出会える気がしないよ」

2月の深夜、凍てついた寒空の下で抱きしめながら彼は言った。

余裕のない男の声で囁かれる熱い言葉はこんなにも胸に突き刺さるのだと知った。

こんなにわたしを求めてくれる人を逃してしまうのか。

そう思うと惜しい気がした。
でもその時のわたしには国を跨いだ遠距離恋愛への自信がなかった。

もう二度と会わないと彼に告げた。

「そんな顔しないでよ。笑った顔が好きだよ」

そんなことを言う彼の方が泣きそうな顔をしていた。


ひとりになって考えた。考え続けた。
そして、彼から「やっぱりこれで終わりは嫌だ」と連絡が来た。悩みに悩んで結局会う約束をした。
悩む自分が嫌だった。
揺れている時点で浮気してるようなものだと思った。一度そう思ったらもう止められず、付き合っていた人に別れたいと告げた。フラットにしたい、それだけだった。誰とも付き合わないまっさらな自分になりたかった。
付き合っていた人はあっさり身を引いた。
たった3週間の付き合いだった。

まっさらになるとやはり思い浮かぶのは彼だった。別れたよと告げたい。
彼はなんて言ってくれるだろうか。
知らず知らずのうちに、国を跨いだ遠距離恋愛への覚悟は固まっていた。

電話をかけた時、相手は仕事の休憩時間だった。自分の声の震えは今でも覚えている。
別れたことを告げると、「俺のせい?」と言われた。沈黙を肯定と捉えた彼は照れながら再び告白をしてくれた。

「この前も言ったけどやっぱりあなた以上の人には俺の今後の人生で出会えないと思ってるから」


この言葉は一生忘れないと思った。
その後は休憩時間を奪うのを申し訳ないと思いながらも止められず、わたしたちは喋り続けた。

一週間後、桜がまだ蕾ですらない3月の初め、彼は日本を発った。
8,000キロを越えた恋の始まりだった。


好きな人ができるとなんでも頑張れる。
好きな人に恥じない自分でいたいからだ。

そんな自分のことは大好きだが、裏を返せば好きな人に好意を向けてもらえなくなると一気に頑張れなくなってしまう。

それがわたしの弱さだった。

腹を括って仕舞えば遠距離恋愛は大したことだと思わなかった。
元々国内の遠距離恋愛の経験があったことも大きいだろう。
時差も苦痛に感じなかった。
寝ている間に連絡が来ることも嬉しく、彼の時間を示す国際時計を眺めることも好きだった。
彼が思うよりもずっと、わたしはこの恋愛を楽しんでいたと思う。
でも彼はきっと我慢できなかった。
自分のせいで遠距離恋愛をさせていると思い込み続け、自分だけがいっぱいいっぱいになっているその事実に耐えられなかったのだ。

夏が来るよりも早く、4ヶ月もしないうちに根をあげた。

「俺の人生に巻き込んでごめん」


この言葉だけは許さないと思う。

巻き込まれたなんて思っていない。それはわたしに失礼だ。

主人公ぶってんじゃねえよ、わたしの人生はわたしだけのものだ。わたしが選んだ選択肢を勝手に自分のせいにして勝手に背負おうとするな。

距離を置こうと言われてからのわたしは、わたしのことを愛することに必死になった。

わたしは恵まれている。
わたしを愛してくれている人はたくさんいて、その日は友人と買い物をしていた。

普段はあまり足を踏み入れない百貨店で、所謂“デパコス”を買おうと思った。

ずっと憧れていたクリニークの香水、“happy”

シトラスがベースで、苦手な人が少なそうな香り。
フローラルでもあるので、ほんのり甘さも残るがくどくはない。

身にまとうだけで元気な気持ちになれる。

口コミでもそう定評があった。

ショップ店員さんに声をかける。

「happyが欲しくて」

「happyっていくつか種類があるんですよ。どれをお探しでしょう」

幸せの種類をきかれることなんてそうそうないだろうな。

そんなことを思いながら、いくつものhappyを嗅いだ。

「やっぱり普通のhappyがいちばん好きかも」

普通のhappyだって。

声に出した日本語に友人と顔を見合わせて笑った。

普通の幸せがいちばん好きなんて、なんて素敵な響きだろうか。

その日は友人とおそろいの口紅と普通のhappyを購入した。

大丈夫。わたしは十分幸せだ。

失恋の準備は着実に進んでいた。

距離を置きたいと言われてからたっぷり2ヶ月、夏真っ盛りの頃、ようやくわたしはフラれた。

宙ぶらりんな状況でいた時より、フラれた後の方がホッとしたくらいだった。
それでも溢れる何かは止められなくて左手で目元を抑えると、手首からふんわりと優しい柑橘の香りがした。酸っぱくも苦くもない。
普通の幸せはいつだってほんのり甘くて、わたしに寄り添ってくれる。




あれから季節はまた巡った。

2月の空を見て、久しぶりに彼を思い出した。
あの日、彼に余裕のない告白をされた日と同じ灰色だった。

彼はこの一年、8,000キロ離れた場所でわたしを思い出したりしただろうか。

さようなら。私を好きで私が好きになった人。

8,000キロじゃ足りなかった人。
ブラジルでも宇宙でもどこへでも行けばいい。

そして3年くらい経ってから死ぬほど後悔すればいい。

確かに、あなたの今後の人生でわたしよりいい女に出会えないでしょう。




中身が半分くらいに減った香水のボトルを手に取る。
普通の幸せはすっきりと甘い柑橘の香りで、それはわたしの身体に心地よく馴染んだ。

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