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長い一日が終わる【恋人が死のうとした④】


スマートウォッチの振動で目が覚めた。

彼の母親からの着信だった。
時刻は午後7時半過ぎ。3時間ほど眠っていたらしい。
彼の母と弟くんが新幹線で名古屋に着いたようだった。
そういえば、どこで会うのか決めていない。家は論外だ。でも、支えがないと歩けない彼は近場でないと無理だろう。
「どうする?」と同じく寝起きの彼を振り返ると、いまだ薬が抜けきってはいない様子だった。それでも彼自身で家のそばのカフェに予約の電話を入れた。彼の母に場所を伝えて先に待つ。

ほどなくしてタクシーが到着した。

久々に会う彼の母親も弟くんも身なりが整っている。観光に来ているかのようだった。夜勤明けのまま奔走し、化粧がボロボロの自分と比べて恥ずかしくなるが仕方ない。

店に入り、それぞれ注文をした。彼も彼の母親もアイスティーとか、そんなようなものを頼んでいた気がする。このあたりは覚えていない。わたしはカフェオレを頼んだ。普段の私はブラック一択だけど、胃に厳しい気がした。少しでもマイルドなものが飲みたいと思った。覚えているのは弟くんがレモンサワーを頼んだことだった。いや、レモンサワーではなかったかもしれない。とにかく、お酒を頼んでいたことだけは間違いない。

え、とおそらくそれは声が漏れていた。
彼が私の反応をかき消すかのように言った。

「お前こんなときに飲むの?」

「え、この人も新幹線でビール飲んでたで」

弟くんが彼の母親を指さす。

理解が及ばず絶句した、のはわたしだけだった。

「まじかー!うちの家族やばいね!」

彼は笑っていた。

わたしの中では彼はわりと母親と仲が良く、頻繁に連絡を取り合っている印象だった。でもそうでもなかったようだ。

「職場でそんなことになっていたなんて」

彼の母は声を詰まらせた。

「○○ちゃんとも続いてるのかすら分からなかったのよ」

彼の母は彼に向き直り、
「帰ってきなさい」
と言った。
そして今度はわたしに頭を下げた。

「お願いします。××を帰らせてください」

もともとそのつもりだった。彼は心が弱っているのだ。マイナスな思考になるのはだいたい夜だ。
でも私は夜勤だから夜に一緒にいてあげられない。
家族が一緒に過ごせるのならそれがいちばんだった。

「ご実家でゆっくり過ごすのがいちばんですよね」

問題は帰る日だった。
本当は今日か明日にでも福岡に連れて帰るつもりだったらしい。経過観察のために2日後に病院に行かなければいけない話をすると困った顔をした。そんなに仕事は休めない、という母親の気持ちも分かる。わたしも翌日の夜勤を休むつもりがないからこそだ。
病院に行ったあと帰らせるとのことで話はまとまった。

方針が決まったあとは気が楽になって少し落ち着いて話ができた。大きめのBGMが流れるカフェでは土曜の夜を楽しむカップルや友人グループで賑わっていて、わたしたちもその一部だった。誰も今朝方、このうちの一人が、彼が自殺未遂をしたとは思うまい。

「スリッパ1000円もしたんですよ!」
「どうせ車椅子だし、タクシーだったし、裸足で帰らせればよかった!」
笑うと思った彼の母は一瞬真顔になって
「○○ちゃんすごいこと言うのねえ」といった。

すごいことしでかしたのはあなたの息子じゃん。

彼の祖父とも電話で話をした。
一度だけ挨拶に伺ったことがあり、面識があった。
しきりにお礼を言われた。

彼の母親と弟くんはその日、名古屋のビジネスホテルに泊まり、翌日の新幹線で福岡に帰ることになった。ホテルもわたしが手配した。


彼らを見送った後、その週会う予定だった友人に連絡をいれた。
車で九州から関東まで旅をしていた友人で、彼とも面識があった。
その時は三重にいたようで事情を話すと車を走らせて会いに来てくれた。
彼と話している間はいつも通りの笑顔だったが、その後に「相当やばそうな状況だね」とメッセージが来て、名古屋に駆け付けられる距離で待機してくれた。
感謝してもしきれない。

また、姉にも連絡をいれた。
すでに夕方に連絡した母から事情は聞いていたようだった。
死にそうだったのは彼だったのに、わたしかのような労わり方だった。
そう、家族はわたしの心配をしてくれるのだ。


その夜、彼の母親からメッセージが来た。
見つけてくれてありがとう、それは分かる。
問題は最後の文章だった。
「結婚して福岡で同居しませんか」
その時の自分の感情をどう表現すべきか分からない。
怒りではなかった。まだ何にも具体的な感情は湧いていなかったんだと思う。彼をお風呂場で見つけたあの時から、わたしは一種のアンドロイドのような女になっていたのかもしれない。

「今後のことはまた考えられるタイミングで一緒に考えようと思います」「名古屋にいる間はこんなことしないようにわたしが守って、来週にでも福岡に無事に帰らせます」「(彼の母親)さんも倒れてしまわないようにゆっくり休んでくださいね」

いや、アンドロイドはこんなに優しくないだろう。
その時の最適解を選んで、選び続け、わたしは生きている。


既に布団に入っている彼の横に自分の身体を滑り込ませる。

目をつぶると、舌っ足らずだった彼の母親の声が頭に思い浮かぶ。

カラン。
続いて頭の中で響いたのは、彼の弟くんの飲んでいたレモンサワーかなにかの氷が溶ける音だった。

「この人も新幹線の中でビール飲んでたで」

もう考えるのはやめよう。
今日のわたしはよく頑張った。
それだけでいいんだ。

午前2時。
恋人が死のうとした日、その長い一日がようやく終わった。