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トートバックに入れているもの

私にはお気に入りのトートバックがひとつある。その子はとってもかろやかでまるで空の風を素材にしたような子なのだ。しかしその子には私の相棒のカメラはひとつも入らない。だからいつもそのトートバックを肩から提げる時は、自然とカメラはお留守番の日だと決まっている。

もちろんそうなると旅先で目にする景色に相棒のカメラさんがいない寂しさを感じることも必定となってくるのだが。

しかしたまには何も持たずトートバックひとつでお出かけすることも気持ちが良い。必要なものは本とハンカチ。たまに眼鏡。財布も携帯もいらいのではと思う時があるのだけれど、私が住まう京都の今出川通りはパンストリートとして有名で、好きなパンでお腹を満たすためにもお金は必要だったりする。

トートバックの手軽さは好きな本をさっと取り出せること。太陽の光を栞にのんびり木陰でページをめくる時間が好きだ。そして何よりトートバックをひとつ持っているだけで自分の身体がとても軽くなった心地がする。普段からフィルムカメラを4台くらい普通に持っていることからしても当然の感覚なのだが。

そしてトートバックの時は身軽であるにも関わらず行く先は遠くではなく家から近い京都御所だったりすることが多い。しかしそこは私にとっては小さな旅先なのだ。日常の風景にはいつも冒険や発見や癒しがある。

例えば、私の知らない人たちが街を行き交い、今という時間を誰かと過ごしたり、目的地に向かって歩んでいたりしている。それを見つめていることが私の好きなことだったりする。誰かにとっての日常が私の瞳にうつっている。別に声をかけたりするわけではないのだけれど、きっとこのまま関わらない未来だったとしても、もしここで声をかけてみたらあなたと私は他人じゃなくてどこか共感したり笑えたりすることができるのでは、と考えることがある。それは意味があるなしではなく、ただそういう風景って素敵だなと思う淡い期待のようなものなのだ。

例えば、御所に咲いている名前の知らない花に癒しを覚える。きっと花も私の名前を知らない。だから伝えようとして側に寄ってそっとふれてみたりするのだけれど、私の気持ちは伝わってるのか分からなくて、でも花が宿しているさりげない優しさや柔らかさや美しさはどこまでも伝わってくる。見返りを求めない素朴な純度がいつもただそこにある。それだけで心に何か大切なものを摘んでいる気がする。人生で学んでおきたいのは、花や木の名前。自分をいつも心地よくしてくれるのは花や木々が風や光と共に過ごしているその光景だからこそ、自分をそのように癒してくれるものの名前を知りたい。

例えば、鴨川にゆらめいている西日の艶めきは寂しさを語るまで懸命に輝いている。その中で鳥たちが果てしなく飛び続け、たまに鴨川に降り立つ。逆光に飲み込まれて一瞬姿を消すその神々しさに胸をつかまれそうになるのだ。そして再び飛び立つ時、大きな白い翼を右も左も上下に動かして迷うことなく進んでいく。光に向かってまた吸い込まれていく。しばらくすると大地に大きな影を描きはじめ、その鳥が太陽の近くを高く自由に飛んでいるのだと理解するのだ。なぜだかその時自分にも羽がきっとあるのだろうな、と直感的に思ったことがある。

果たして例えになる例え話ではなかったかもしれないが、とにかく私のご近所における旅先にはそのように満たされる時間がある。

そして太陽が街を去る頃、私はそれらの日常のカケラのような記憶と感情をトートバックにしまうのだ。小さな旅先のお土産のように。自分の過ごした心地よいあたたかさを大切な人に分け合えられるように。そのままでなくとも、別の形でその人にあたたかさを与えられるように。だからこそお気に入りの身軽なトートバックにふわりと入れるのだ。

ご近所が旅先になったり、世界をシンプルに楽しめることがトートバックを手にする魅力なのかもしれない。

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