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原体験らしきものたちを振り返ってみた

2022年の11月にフリーランスとして独立して、はや10ヶ月。

気づいたら新しく仕事をいただく機会も増えてきて、誰かとコミュニケーションをとる仕事がほとんどなので、自己紹介する機会も増えてきてるんだけど、コーチという職業柄か、過去のことを振り返って語ろうとすると、まあ長い長い。

あまりに長く喋ってしまうものだから、自分自身でも何を話しているかわからなくなって、最初に話そうと思っていた結論に辿りつけないこともしばしば。

これはこれで嫌いじゃないんだけど、一方で整理されずにカオスのようになっている大量の原体験たちが、自己紹介のたびに今か今かと表出するチャンスを伺っているような感覚がある。
なので、一度みんなに一斉に日の目を浴びさせてあげようということで、人生史を振り返るスタイルでガーっと振り返ってみようかなと思い立った。

体験を体験のままガーっと書いていこうかなと思うので、読みやすい文章ではないかもしれないし、幼少期はわりと暗めなんですが、許してね。笑


生誕〜小学校時代

疑問を自由に表現できない社会への居心地の悪さ

小さい頃の自分を思い返した時に、真っ先に思い出されるのは、疑問と、それを口に出して怒られていた記憶。

当時は我ながら素直なタイプで、自分の感じたことを素直に出していたような気もするんだけど、ただ疑問に思ったことを聞いたり、完全に理解していないからわからないと言っただけなのに、怒られたという記憶が鮮明に残ってる。

家庭や学校という、規模は違えどいくつかの社会を生きている中で、そこにあるルールや暗黙の了解に対して、疑問を感じる子どもだったので、それこを「なんで勉強しないといけないのか」「なぜ名札をつけないといけないのか」みたいな疑問が湯水のように湧き上がるわけだが、これは聞いたら怒られる質問だな、みたいなことを少しずつ学習していった。

小学校の3,4年生になるくらいの時には、世間を生きていくための術として嘘を完全に習得して、怒られたり恥を書いたり、嫌な思いをするのを避けるために嘘ばかりついていた。

当時の感覚だと、周囲の子どもたちが怒られるとわかっているのに本当のことを言っているのをみて「なんで嘘をつかないんだろう、バカだなあ」とすら、本気で思っていた。

嘘ばかりついている一方で、当時からずっと「自分が感じたことを表現していない、嘘や無反応の中で生きている人生になんの意味があるんだろう」という虚無感が拭えずにいた。なんなら今もその感覚は残ってる。

納得していないのに従わないといけないのはなんで?

日常的に嘘をつくようになって、虚無感は感じつつも、湧き上がってくる疑問を心の中だけで受け流していくスキルも獲得。一方でどうしても我慢できない疑問もたくさんあった。

当時の小学校は公立の小学校で、学校の給食が食べられないと掃除の時に机と一緒に運ばれる文化の学校だった。当時は食べるのが苦手だった(今は大好き)ので、毎日のようにみんなが掃除している中で、机と一緒に運ばれながら給食を食べていた。でもなんで好き嫌いが多いというだけで、こんな目に合わないといけないの?

運動が苦手で、特にみんなのペースにあわせないといけない、サッカーやバスケなどの集団競技が特に苦手だった。クラスのみんなにはお前のせいで負けたと責められ、体育の先生は庇ってくれるどころか、やる気を出せと叱る。運動ができないってそんなに悪いこと?

作文は得意だったけど、ある日の発表で書いた内容を、担任教師がイジってきて、クラスのみんなは笑っていたけど、すごく恥ずかしい気持ちで発表を終えた。その後、真似をして別の人の発表を小声でイジったら担任が激怒して謝らされた。反論したら教師に逆らうな。大人なら何をしてもいいの?

どうしても納得できないことが疑問となり、それを押さえつけて見なかったことにしながら、大人や社会への不信感や嫌悪感をひたすら蓄積し続けていき、どこにも発散できずにいた。

中学校時代

不信感が爆発して大無気力時代に突入

当時は人生に意味なんてないんだと悟り、主体性を手放していかに苦しまずに生きるのか、ということがテーマだった。嫌いな体育や美術ではやる気ゼロでサボりまくり、授業中は99%の時間に友達と雑談、休み時間は寝る。

大人たちや社会、学校や家庭に対する不信感は、中学に入って爆発した。誰が何を言っても全く響かなかったし、真剣にやって傷ついたり疲れたりする方が馬鹿らしいと思っていた。

通うことになった中学は不良の多い学校で、学校に灯油がばら撒かれて休校になったり、音楽の授業中に知らない先輩が教室に殴り込みにきたり、さながらROOKIESのような世界観の学校。

そこまでいくと学校のトイレにタバコが落ちていたりしても教師はなにも言わなかったが、一方で名札を忘れてしまった普段は真面目な生徒にはめっちゃ説教する。学年集会まで開いたりする。

不良には怒れないから、怖くない生徒を代わりに怒る。自分みたいなよく喋るやる気ないけど不良ではない、みたいな生徒は格好の的で、下手したら何もしてなくても怒られた。不良の生徒が授業中に教室からでていき、担任はその不良を怒るのではなく、隣の席にいた自分に対して「仲間が出ていくのに何もしないのか」と怒る。

小学校からの蓄積もあって、大人への不信感は爆発した。当時は大人はみんなこんな感じなんだなと思い、こんな卑怯なやつらばかりの社会にでていく上で、正直で一生懸命やるなんて馬鹿らしいと思ったし、そんな未来しか待っていないのに努力なんてできなかった。

誰とも話が合わないという孤独感

もう題名の通りで、感じていたことを分かち合える人がいないという孤独感がずっとあった。同年代の友達にも大人たちにも、本当に言いたい話をすると面倒がられたり怒られたりするなと感じていた。

本当は傷ついている人がいるのに誰も気づかずに楽しそうにしていることが不思議で仕方がなかったので、だからよくあるイジりとかノリとか、超つまらなかった。委員会とかで人前で話す時には全然話聞いてないくせに、俺たち親友だよなとか言ってるの意味わからないな、とか。

当時から大学くらいまで一番嫌いだったのが「優しい」で、表面的に優しげな行動をとる人は優しいと言われて(そういうキャラになって)相手のことを本当に考えているなと思う人はいじめられたりしていた。クラスの優しいキャラの人が、いじめられっ子と隣の席になった時に「うわー、〇〇とかよ、ハズレだわ」と言った時に、こいつの何が優しいんだと思った。

最初はこういうことをガンガン口に出していたんだけど、まあめんどくさがられる(今思うと伝え方もよくなかった、お互い幼かったんだなと思うけど)ので、どんどん言わなくなり、自分を表現できない場所に真剣にいるのは苦しいので、そもそも活動にきちんと参加しなくなっていった。

高校時代

答えがないということの居心地の悪さと安心感

中学では部活を3ヶ月で辞めていたので、高校では部活をやり切ってほしいと親に言われて、でも運動も先輩後輩関係も厳しい練習も嫌いな自分にとって運動部なんてあり得ない選択肢で、絞り出した選択肢が演劇部。

この選択が人生に大きな影響を与えるなんて全く予想していなかったので、入部当初はモチベーション超低い部員だった。休眠寸前だった将棋部と兼部して、週2で稽古をサボって将棋部でドラクエをやっていた。

それが変わってきたのは、1年生の6月末にあった先輩の引退公演。全国に出るような強豪校だった(後から知った)ので稽古は超厳しくて、顧問も超怒るし規律も厳しいので、当初は6月末の公演が終わったら適当な理由をつけて辞めようと思っていた。

準主役みたいな役をもらって(今思うとあんなに態度の悪い1年生を信頼してこんなに大切な役をくれた先輩は本当にすごい)人生初めての公演をやり切ったときのお客さんの反応、一斉に湧き上がった拍手、引退する先輩たちの涙が焼き付いてしまって、もうちょっとだけ続けてみてもいいかなと思った。

そこから2年とちょっと、多分人生ではじめて本気でなにかに向き合ってみた。それが演劇だったのが良かったのかなと思うのは、演劇は全然答えがなくて、超下手でも感動したり伝わることもあるし、超上手くても全然心に響かない場合もある。

これまでの人生の中で、すでに用意されている答えを疑うことをやめられずに苦しんでいたことを、演劇をやる上では活かすことができるんだと知った。

答えがない世界が当然のものとしてある演劇の世界では、その中でも考え続けて自分なりの考えをそれぞれが持つことも、そしてみんなで話し合って考えを歩み寄らせていくことも求められていた。これこそ自分が求めていたものだ!という充実感を感じていた。

対等な関係が実在していると知った

演劇との出会いと同じくらい、もしかするとそれ以上インパクトがあったのが、演劇部の先輩たちと、顧問の先生との出会い。今でも頭が上がらないなと感じる人たち。

中学までの体験の中で、先輩とはなぜか初対面から偉そうな礼儀のないやつ、教師とは答えを押し付けてくるわりにこっちからの質問には答えられない頭の悪いやつ、というレッテルをビッタビタに貼り付けていたのが当時だったので、入部当初は超態度悪くて、反抗するでも従うでもなく、やる気なく適当に反応するだけの部員だった。

そんな態度だったにも関わらず、先輩たちは1年生全員をとても可愛がってくれた。「1年生は演劇に集中できるように経験豊富な上級生がサポートする」というのが演劇部全体の考えで、どうすれば1年生が演劇に集中できるのか、楽しめるのかということを一生懸命考えてくれた。

今までに接してきた先輩像とはあまりにかけ離れていて、ものすごく衝撃を受けたのを覚えている。今思うと、組織を作っていく上でとても大切な考え方を教えてもらえたんだなと思う。この考え方は今でも大切にしている。

顧問はものすごく厳しい人で、廊下ですれ違った先生に挨拶をしないところを目撃されたら、部活停止になりかけるくらい。厳しい人や怒る人は嫌いだったので、1年生の時は正直嫌いだったけど、1年間接していく中で他の大人とは全然違うことに気づき始めた。

他の教師はあくまで教師-生徒として指導をしているという感じ。それに対して顧問はもっと容赦なく怒っていて、演劇をやる仲間として妥協なく接していて、だからこそ「高校生だから仕方ない」とか存在せず、大人が当たり前にやることをできていなければ容赦なく怒るんだとわかった。

こういうのが人と人が接するということなんだな、と感じた。上下関係ではなく対等な関係だからこそ本気で怒る。ずっと孤独だったけど、部活の先輩や顧問は仲間なのかもしれないな、と感じた。

大学時代

留年して知った人の優しさと多様性

大学に入った時を振り返ると、高校の演劇部との出会いがあまりにも衝撃だったので、影響を受けまくった結果、価値観の主軸に「あの時の演劇部の文化」を据えて、それに近いものは素晴らしい、遠いものは良くないという、激烈評価マンになっていた。

例えば、演劇部は時間にめちゃめちゃ厳しかったので、時間を守らないやつはダメ。返事をしないやつはダメ。入ったのが軽音部だったのがまた良くなくて、どちらもステージに上がるのが仕事なので、考えを完全に引き継いでいて、自分の価値観を押し付けるタイプだったなと思う。

それが変わったのは、大学4年生から卒業できずに留年したタイミング。

留年することは、当時の自分の価値観からするとあり得ないことで、自信をめちゃくちゃ失ってしまった。軽音部の集まりにも顔を出しにくいなと感じたり、周囲の人の何気ない言葉も否定的な意味で捉えてしまったり、なにより毎日繰り返し、自己批判ばかり繰り返していた。

それでも人が好きだったので、軽音学部の同期とはよく飲みにいっていたんだけど、そこで何人もの仲間が口裏合わせをするでもなく言ってくれたのが「春日が留年したところで、春日の価値がなくなるわけじゃないでしょ」的な言葉。

今まで自分の尺度で人の価値を測って評価ばかりしていたような自分には晴天の霹靂のような言葉だった。人それぞれに価値観があって、さまざまなことを感じているというのを、みんなとっくに知っていて、自分だけがそれを知らずにずっと殻に閉じこもっていたんだなと感じた。

大学の同期には本当に救われたし、こんなことに気づいていて、人にこんな言葉をかけてあげられる同期たちを心から尊敬した。多分、心から人を尊敬したのはこの時がはじめてだと思う。みんな考え方が違って、違う価値観を持っていることが、絶望ではなく希望に変わったのが、この辺りの時期。

音楽や演劇は嘘をつくことができない

大学では軽音学部でバンド活動に熱中した。2年生の時には学生劇団も立ち上げたりして、学校よりも表現活動に熱中していたのが大学のハイライト。

音楽も演劇もかなり好きで熱中していたが、同時に踏み込みきれない自分がいた。時にできないのがアドリブで、アドリブセッションやインプロが超苦手(というかやるのが怖い)。

というのも、台本があるお芝居や全体像が決まっている音楽は(実際はそうでもないのだけれど)その筋書きに沿っていれば自分の顔はそんなに見えないが、アドリブは全部自分だけ、身一つの勝負。

高校に入るまで、いかに自分自身の意思をコントロールしていくかを必死にやっていた分、コントロール不能で勝手に自己表現されてしまう音楽や演劇は、とても怖かった。

一方で本当は表現されたがっている自分がたくさんいて、音楽と演劇はそれを叶えてくれる素敵なものだとも感じていて、その葛藤を感じながら、じわじわと殻を破っていったのが、大学の4年間(実際は5年間)だった。

社会人〜現在

目の前のこの人はなんのために生まれてきたんだろう

社会人になって入った最初の会社は、半年と続かずに辞めることになった。新卒の就活ではやりたいこともなく、なんか変われそうという理由だけで選んだ会社で、このままではいけないと考えて自己分析の本をめっちゃ読んで、2社目は興味のあった教育業界に転職した。

2社目は教育系の企業で、家庭教師の仲介サービスをしていた。人生に関わる仕事をしたいと思っていたので、やりがいを持って仕事をしていたが、ある時から、お金を払っている親御さんの中には、生徒に自分の願いを叶えてもらうためにお金を払っている人も少なくないということを感じ始めた。

それが一概に悪いことだとは思わないけれど、自分の願いは自分で叶えるしかないんじゃないかなーとか、その手助けができたらもっと直接的に人を幸せにできるんじゃないかなーと感じるようになっていた。

そのためにキャリア支援サービスを個人事業主で立ち上げて、20-30代くらいを顧客にしてキャリア支援のプログラムを提供するようになる。そこがきっかけになって、その後コーチングを学ぶようになり、現在につながってくる。

目の前の人に向き合うような仕事を続けていると、演劇や音楽と同じく答えがなさすぎて立ち止まることがある。その人にとって何が幸せなのかは誰にもわからないし、その人の未来がどうなるかも全くわからない。

それでも他人の人生に関わっていくということはやりたかったので、自然と人が生きる意味とか、人生とはなにかとか、幸せとはなにか、みたいな哲学的な問いに興味を持つようになっていった。意図していなかったけど、中学時代までにずっと抑え込んでいた疑問に、ここでまた向き合うことになった。

まず自分らしく生きる、そして周りを助けられる人になる

コーチングを学んでいく中で、何度も何度も立ち返っていることが、他人の自分らしさを支援するより前に、まず自分らしく生き切ることを大切にしたい、ということ。

はじめてコーチングを学んだのはZappasというスクールで、ここでは30人弱いる同期と、ほぼ毎日ペアコーチングをしていた。コーチングを学んでいると気づくのは、コーチが向き合えていないことはクライアントに向き合わせてあげることができないということ。ペアコーチングを繰り返す中で、いくつもの壁を乗り越えさせてもらったし、コーチとして生きていくために自分らしく生きていく、ということを決意した。

それをきっかけに様々な学びや体験をしていく中で、クライアントにいい体験を提供するために自分らしく生きていく、という考え方自体に限界がある(というか本心からそう思っていない)ことを感じはじめた。

クライアントに何かを提供するという考え自体が、中学時代までに最も嫌いっていた教師-生徒のような関係性みたいだし、それを自分は望んではいないのではないかと感じた。

もはや趣味のような自己啓発的学びの中で出会った尊敬する大人たちを思い返してみた時に、彼らは誰かのために何かをするというよりは、もっと勝手に生きていて、それを見た周囲の人が勝手に影響を受けて、勝手に表現するようになっていくという感じ。

そこで思い出したのが、小学生から中学生にかけてよく通っていた、徒歩30秒で行ける幼馴染の家。両親が仕事で不在なことが多く、いつでも遊びにいけて、一緒に遊んでもいいし、勝手に過ごしてもいいし、それぞれの好きなように過ごしながら、でも自然に影響しあって生きていた、あの空間は居心地がよかった。

自分にとっての本来の世界はそんな感じなんだな、と感じた。みんなが勝手に自分らしく生きて、そして勝手に影響しあって、なんかコミュニティになって、なんか社会になっている。そういう世界観の中で生きていきたいなと感じた。

だから誰かのためにではなく、勝手に誰かに影響を与えるんだろうと信じながら、自分らしく生きることを必死に頑張ってみればいいのかもしれないな、と思った。

さいごに

コーチングに関連するような仕事が日常のほとんどなので、周りの人の人生の振り返りに触れることは多いけど、自分のものを振り返るのは実は久しぶりだったかもしれない。

書いていくうちにどんどん増えていって、気づけば8,000文字近くになったけど、これでもざっと表面をなぞって全体像をアウトプットした、という感覚。

当たり前のことだけど、人の人生ってそれだけ長大で奥深いものなんだなと、改めて実感した。その奥深さにリスペクトを持って、すべての人に接していきたいなと、自分自身に願いたくなりました。

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