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【脳内】恨みを糧に生きるしかないのだ。

強いタイトルですが。
以前にも書きましたが、親の影響はとても大きいのだと日々実感しています。と言うことを書いている。

幼少期の私はどこかおかしくて、
言われなくてもダメだとわかることをするし、何かにつき判断は間違えるし、とにかく怒られまくった記憶がある。
その中にもふと、今考えると理不尽に怒られたこともたくさんあることを理解する。

例えば、
まだ字という概念がない妹も分まで、まだ字をちゃんと習ってもいない、自分の名前もやっとな私が書くことになり。同じ字の一文字はまだしも、二文字目を自分の字と間違えたときにえらく怒られた。とか。

もっと悪いのは、母親はさも論理的なように怒るが、自分の思い通りに行かないことに怒っているだけの、どこまでも感情的な人であることを自覚していない。
(逆に自覚していた上でこれなら恐ろしいので、自覚していないことを願う。)

また、幼少期は褒められた記憶もない。
幸いなのは、得意不得意がはっきりしていたので、自分のいいところを自分で自覚できたこと。
親に褒められたのは高校生か大学生くらいな気がする…
が、親はいかにも「褒めてきました」みたいな態度でいるところが、恨みの根源となっている。

さて、成長した私に出た影響(というか弊害)とは、
“喜”“哀”“楽”の感情に鈍感で、基本感情が平坦なこと。
そのかわり“怒”が発達していること。
そのせいか、感想を述べることと、それを用いた会話が苦手なこと。
褒められるのが苦手なこと。また、いい評価をされることに興味がないこと(仕事ではずっと指摘されているが、評価にもそれによる報酬にも全く興味がないし、プロセスを持っていない)。
非常に人間味に欠けているような、我ながら心配である。

ただ、この影響を恨みつつも、やはり感謝していることもあるのだ。
家族を含み、心理的距離が遠いので、人とベタベタした付き合いを最初からしないこと。
「褒められたい」が行動の動機ではないこと。(仕事だとこの感情は厄介であると思っている。)
怒られても冷静に反省し、改善する姿勢があること。
これらを自分の長所とさえ思っているのだから皮肉である。

こんな感じに成長してしまったおかげで、感情的な(母)とは一生分かり合えることはない。
恨みを糧にして生きていることも、それが故に感謝していることも、一生伝わらないのである。